父島、母島、兄島……小笠原諸島にはなぜ「家族っぽい」名前の島が多いのか
2020年8月29日
知る!TOKYO小笠原諸島の父島と母島周辺にはなぜか、兄島、妹島など「家族っぽい」名前の島が多く存在しています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。
1675年に上陸した探検隊
信頼のおける記録は、1639(寛永16)年にオランダ東インド会社の船が父島と母島に推定される島を発見したことや、1670(寛文10)年に阿波国のみかん船が母島に漂着し、生還の後に報告したものなどがあります。

後者の報告を受けて幕府は1675(延宝3)年、武士団「松浦党」の島谷市左衛門を探検に向かわせています。このときに探検隊一行は、「此島大日本之内也」という石碑を建てたとされています。
またこれ以降、無人の島々は無人島(ぶにんじま)と呼ばれるようになりました。
貞頼発見説が有名になったワケ
その後は放置されていた無人島ですが、1727(亨保12)年に動きがあります。
小笠原貞頼の子孫(ひ孫)と称する小笠原貞任(さだとう)なる人物が、「かつて祖先が家康公より南方で島を発見した場合には領土して与えることを約束されていた」として、無人島の領有権を訴え出るのです。
このときに貞任は『巽無人島記(たつみぶにんじまき)』なる資料をもとにした『辰巳無人島訴状並口上留書』を提出します。
一時は渡航の許可を出した幕府ですが、貞任が根拠とした『巽無人島記』は、オットセイが住んでいるなど、既に幕府が行った探検とは記述が大きく異なります。
結局『巽無人島記』は真っ赤な偽物と断定され、関わりを恐れた小倉藩主の小笠原宗家からも係累(けいるい)であることを否定された貞任は、財産没収の上、追放の刑罰に処せられました。
ところが皮肉なことにこの騒動を経て、小笠原貞頼が島を発見したという説は次第に知られていくようになります。

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