東京湾を一望する景勝地から一転、遊郭に そして戦後現れた「洲崎パラダイス」とは【連載】東京色街探訪(1)

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東京湾を一望する景勝地から一転、遊郭に そして戦後現れた「洲崎パラダイス」とは【連載】東京色街探訪(1)

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カベルナリア吉田

紀行ライター、ビジネスホテル朝食評論家

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江東区東陽町1丁目周辺にかつて「洲崎遊郭」という遊郭がありました。その痕跡を紀行ライターのカベルナリア吉田さんが辿ります。

「洲崎」と呼ばれた場所があった

 東京メトロ東西線の木場駅で降り、東陽町寄りの1番出口から外に出ます。幅の広い永代通りを車が途切れず走り、マンションのほか、ビルも多く都会の風景。取りあえず永代通りを東陽町方面に歩きます。

 横十間川を渡ると、道は東陽三丁目交差点で「大門通り」と交差します。昭和の初めごろ、周辺は貯木場(ちょぼくじょう)が多く、丸太を筏(いかだ)に組んで川に浮かべ運んだそうです。貯木場が多かったから「木場」なんですね。

 さて三丁目交差点から「大門通り」を南へ進みます。緩やかな上りの、そして途中で折れ曲がる坂道を上った先に立つ「洲崎橋跡地」の碑。坂道と交差して、細長い「洲崎緑道公園」が延びています。

 周辺は江東区東陽1丁目、でも昔は「洲崎」と呼ばれていました。緑道公園は、かつて流れていた「洲崎川」の跡で、川には洲崎橋が架かっていました。

洲崎橋跡。かつてここに「パラダイス」ゲートが立っていた(画像:カベルナリア吉田)



 戦前はここに「洲崎遊郭」がありました。吉原や玉ノ井と並ぶ遊郭で、入り口に「洲崎大門」が立っていました。

 そして戦後は遊郭跡に赤線「洲崎パラダイス」ができ、川に架かる洲崎橋に「洲崎パラダイス」と大きく書かれたゲートが立っていたそうです。今でこそ周辺はビル街ですが、戦前戦後を通じて、ここは色街だったのです。

かつては海に面する湿地だった

 江戸時代、この辺りは海に面した湿地で、東京湾を一望する景勝地だったそうです。潮干狩りや舟遊びを楽しんだり、初日の出を拝みに来たりする人も多かったとか。

 しかし明治時代に入ると埋め立てられ、そして1888(明治21)年には根津(現・文京区)にあった遊郭が、ここに移転します。当時の根津遊郭の近くに東京帝大校舎を新築することになり、帝大のそばに遊郭があるのはよろしくない、というのが移転の理由でした。

 そんなわけで湿地が埋め立てられ、遊郭が移転して「洲崎弁天町」が生まれました。そしてここに「洲崎遊郭」ができ、多くの男たちでにぎわったわけです。高級な吉原に対し、木場の職人衆が集まる洲崎は、庶民の遊郭。「大名吉原、洲崎半纏(はんてん)」などと呼ばれたそうです。

洲崎川緑道公園。昔はここを洲崎川が流れていた(画像:カベルナリア吉田)



 その後、洲崎遊郭は1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受け、そして第2次世界大戦の東京大空襲で壊滅しました。しかし戦後は焼け野原に人が戻り、バラックを建て、赤線「洲崎パラダイス」ができました。

 戦争で1度は壊滅しながらも、赤線として復活した洲崎。遊郭として生まれたときから、ここは色街であり続ける運命だったのかもしれませんね。

「橋を渡ったら、お終いよ」

 洲崎橋跡地手前の横丁に古い居酒屋が数軒、長屋のようにくっついて並んでいます。その風景は、戦後の洲崎を題材にした小説集『洲崎パラダイス』(芝木好子著/集英社文庫)の場面をほうふつとさせます。

1955年に発表された芝木好子の『洲崎パラダイス』(画像:集英社)



『洲崎界隈(かいわい)』『洲崎の女』など収録された小説はどれも、洲崎パラダイスが舞台。ゲート手前の居酒屋「千草」に関わる女性たちの生きざまを通じ、当時の赤線の雰囲気をリアルに描写しています。

 目先の金や色恋に目がくらみ、ゲートの向こうに行こうとする女性に「千草」のおかみが、

「橋を渡ったら、お終い(おしまい)よ」

と言う場面が印象的です。

小説片手に数少ない「洲崎」名所をたどる

 洲崎橋跡地の碑を横目に進むと「大門通り」が突然、往復6車線の大通りになり驚きます。

 今は通りの左右とも東陽1丁目ですが、昔は道の西側が弁天町1丁目で、東側が2丁目。戦前は両方とも遊郭でしたが、戦後は1丁目が住宅街になり、2丁目だけが赤線になりました。 

 とはいうものの現在は旧1丁目、2丁目とも普通の住宅街で、色街があった痕跡はほとんどありません。東側の旧2丁目には短いアーケード商店街「東陽弁天商店会」があり、ここに「弁天」の名が残されています。ただし店は少なく、少々寂しい雰囲気です。

東陽弁天商店会のアーケード(画像:カベルナリア吉田)

 大門通りをそのまま南へ進むと、汐浜運河に行き当たります。今でこそ運河が流れていますが、かつて辺りは海だったそうです。遊郭ができた当初の洲崎は、海に突き出る半島で、台風の高潮被害を受けることも多かったとか。

 大門通りの東側にある「東陽一丁目第二公園」には「洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養碑」が立ち、亡くなった遊女たちの霊を慰めています。

 また旧・洲崎の西北端には「洲崎神社」があり、洲崎パラダイスで働く女性たちが、店を開ける前に参拝したそうです。境内には、この地を度々襲う高潮の収束を願う「波除碑」が立っています。

 ほかに「洲崎」と名がつくものは郵便局と、弁天町商店街に洲崎名義の食堂があるくらいです。吉原が往時の遺構を数多く残し、今もなお色街であるのに対し、洲崎に色街時代の痕跡はほとんど残っていません。

 芝木さんの小説を片手に、かつて洲崎橋に立っていた「パラダイス」ゲートを夢想しつつ歩けば、色街時代の風景がうっすらよみがえるかもしれませんね。

近くには球場跡も

 旧洲崎界隈をあとにして、永代通りを東陽町方面に進みます。オフィスビルが並び、店も次第に増えてきますが、その先にもうひとつだけ「洲崎」名義のものがあります。

 東陽町駅を過ぎ、江東運転免許試験場に向かう角を曲がると、歩道に「洲崎球場跡」の碑が立っています。洲崎球場は1936(昭和11)年に結成された野球チーム「大東京軍」の本拠地で、日本プロ野球初の日本一決定戦「巨人対阪神戦」も行われました。

洲崎球場跡の碑(画像:カベルナリア吉田)



 ただし水はけが悪く、冠水によりコールドゲームになることもしばしばで、球場としては長続きしなかったようです。

仕上げは東陽町名物「タンギョウ」で

 以上で洲崎名義のものは、ひと通り押さえました。

 なのですが木場から東陽町に向かう永代通り沿いで、「餃子(ギョーザ)」看板の中華料理店が妙に目につきます。「タンメン」とのセットがあり、タンメンと餃子を合わせて「タンギョウ」と表記する店も。実は東陽町の隠れ名物が、この「タンギョウ」なんです。

さりげなく「タンメン」看板が(画像:カベルナリア吉田)

 散策も終わったことだし「タンギョウ」で一杯……と思ったら、どの店も人気があり混んでいます。でも東陽町駅周辺には、居酒屋がたくさんあるので心配いりません。昼からぶっ通しで営業していて、値段も安そうな1軒に入ってみました。

「イラシャイマセー」

……和風メニューが並ぶのに、店員はインド人?

 せっかくなので餃子を注文すると、フライパンから皿に移すときに皮が破けたのか、けっこう大変な状況で出てきました。インドで焼き餃子を焼かないんでしょうね。でもおいしくて安くて、インドの店員さんは親切でしたよ。

 男性が女性にお金を払い欲望を満たす「色街」は、現代の風潮には合わない、昭和の遺物かもしれません。その存続に異論がある人も多いでしょう。

 でも全国のさまざまな街が開発で同じような風景になる中、かつての猥雑(わいざつ)な街景色を追い求めて散歩するくらいは、いいんじゃないでしょうか。散策後はタンメンと餃子を、ぜひ一緒に味わってください。

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