渋谷区と港区の境にある「飛び地」ような場所はいったい何なのか【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(6)
2020年7月19日
知る!TOKYO多くの人たちが行き交う恵比寿。そんな恵比寿の三丁目交差点付近にはなぜか、お隣・港区の飛び地のような場所があります。いったいなぜでしょうか。都内探検家の業平橋渉さんが解説します。
かつては都市に近接した農村地帯
この外苑西通りによる飛び地のような境界は、どうして生まれたのでしょうか。後から道路を敷いた結果が、このようになったのでしょうか。
この謎を解くには、江戸時代から振り返らなければなりません。
江戸時代のこの地域は下渋谷村、三田村と呼ばれた農村です。恵比寿という地名ができるのは、明治時代になって日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)が工場を建設してからです。
この時代の恵比寿付近で目立つ建物といえば、現在の恵比寿3丁目にあった宇和島藩伊達家の下屋敷(別邸)くらいです。付近には、現在も伊達坂という地名が残っています。

少し北に進んだ、渋谷川より北の広尾には多くの武家屋敷がありましたが、恵比寿はまだ武蔵野の風景が残る都市に近接した農村地帯だったわけです。
8年間で激変した風景
この状況は、明治時代になってもしばらく変わりませんでした。
1909(明治42)年発行の地図を見ると、外苑西通りの走っている部分は田畑や山林が広がっている地域として表示されています。しかし、1917(大正6)年発行の地図になるとガラリとかわります。

田畑がまったくなくなり、路面電車が開通して市街地化が進んでいます。路面電車が通っているのが、現在の外苑西通りの原型となった道路です。
大戦中に廃止された「恵比寿線」
この路面電車は、「恵比寿線」と呼ばれる路線です。恵比寿線は、現在の恵比寿三丁目交差点の北にあった天現寺橋駅から分岐して、恵比寿長者丸駅まで走っていました。

1922(大正11)年に恵比寿長者丸まで開通後に、目黒方面に延伸する予定もありましたが、太平洋戦争中の1944(昭和19)年に不要不急の路線として廃止されています。
長者丸は、恵比寿ガーデンプレイスの南側と目黒駅に挟まれた地域の旧名で、現在の品川区上大崎2丁目です。地名は無くなったものの縁起がよさそうに見られるのか、現在でもマンション名に数多く採用されています。
恵比寿ガーデンプレイスを訪れたことのある人は、JR恵比寿駅から少し離れていることに気づくと思いますが、路面電車が存続していれば少し便利だったかもしれません。
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