没後100年――日本文化を深く愛し、帝都「東京」をデザインした建築家「ジョサイア・コンドル」をご存じですか

都内にある旧古河庭園と旧岩崎邸庭園を手掛けた建築家、ジョサイア・コンドルについて、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。


焼き尽くされた銀座

 政府内で、特に建築物の西洋化を推進したのが井上馨と三島通庸(みちつね)です。

 1872(明治5)年、大火によって銀座の街は焼き尽くされました。銀座の再興にあたり、井上は銀座の店という店を煉瓦(れんが)造りで再建させることを指示します。これが銀座煉瓦街を形成することにつながっていくわけですが、銀座煉瓦街の建設には防火と西洋化というふたつの目的が含まれていました。

現在の銀座の様子(画像:写真AC)

 銀座煉瓦街の建設を構想・指示したのは井上で、現場で指揮したのが三島です。三島は銀座煉瓦街の建設で西洋建築の持つ威力を悟りました。

 銀座煉瓦街プロジェクトを終えた1874年、三島は酒田県令として赴任。1876年には山形県令として山形市へ転任しますが、その間に三島は西洋建築を建てまくったのです。

当初ちんぷんかんぷんだった作業現場

 当時、外観こそ見よう見まねで西洋建築をつくることはできましたが、人々の生活スタイルをすぐに変えることはできません。

 西洋建築で建てられた家屋なのに和式を前提とした家具が配置されていたり、畳敷きの居間にロッキングチェアが置かれていたりといった、どこかしら西洋になり切れていない建築物もたくさんつくられました。

 また、設計担当の技術者が西洋建築に関する知識を有していても、現場の大工たちは西洋建築といってもちんぷんかんぷんです。

 そのため、西洋と和風が混ざったちぐはぐな西洋建築も多く、明治半ばまでは西洋建築っぽい和風建築もたくさん誕生しています。こうした建築物は、擬洋風建築と呼ばれて区別されることもあります。

山形市にある旧済生館本館(画像:小川裕夫)

 三島が山形県でつくった西洋建築も擬洋風に分類されます。いずれにしても開国して間もない時期に、異国のような建物が山形という地方都市で次々と姿を現しました。目にしたこともない建物を見て、山形の人々が驚いたことは言うまでもありません。

 三島が建設を命じた擬洋風建築は時代を先取りしていたこともあり、のちに山形県民の誇りにもなります。特に、霞城公園内(山形県山形市)に移築・保存されている旧・済生館本館は擬洋風建築の最高傑作と評価されるほどです。

イギリスからやってきた建築家


【画像】ジョサイア・コンドルが手掛けた、美しい「旧岩崎邸庭園」の様子を見る(5枚)

画像ギャラリー

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