人気エリア「吉祥寺」に、吉祥寺という名前のお寺がないワケ

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人気エリア「吉祥寺」に、吉祥寺という名前のお寺がないワケ

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猫柳蓮

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住みたい街として常に上位にランクインする吉祥寺エリア。そんな同エリアの名前の由来とは? フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

「住みたい街ランキング」の上位常連

 いつもにぎわいの絶えない町・吉祥寺――。リクルート住まいカンパニー(港区芝浦)が毎年実施している「SUUMO住みたい街ランキング」でも上位常連で、3月に発表された2020年版では3位に入賞しています。

吉祥寺サンロード商店街(画像:写真AC)



 吉祥寺は、新宿と渋谷というふたつの巨大ターミナルに直結していることに加え、個性的な店が多いなど、住みたくなるような要素が比較的わかりやすく、かつ多いことが上位に選ばれた理由ではないでしょうか。

 マイナス要素をあえて考えてみたのですが、人気の店がいつも混雑していることくらい。さすが、吉祥寺です。

吉祥寺という寺院はあるのか

 そんな吉祥寺エリアですが、そもそもなぜ「吉祥寺」という名前がついているのでしょうか。

吉祥寺駅前の様子(画像:写真AC)

 地方から上京してきた人は大抵、「吉祥寺という寺院の門前町だったから?」とうっすら思っていることでしょう。しかし、周辺エリアを歩いてみても、吉祥寺という名の寺院は一向に見当たりません。

 これは一体どういうことでしょうか。もしかして、明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)か何かで寺院が消滅してしまったとか。ちなみに廃仏毀釈とは明治時代に行われた仏教の排斥運動で、その際、多くの寺院や仏像などが破壊されました。

本駒込にあった吉祥寺

 と言いたいところですが……実は吉祥寺、ちゃんと今でもあるのです。しかし吉祥寺エリアのある武蔵野市ではなく、文京区の本駒込だというから驚きです。

文京区本駒込にある諏訪山 吉祥寺(画像:(C)Google)

 諏訪山吉祥寺(文京区本駒込)には江戸時代、駒澤大学(世田谷区駒沢)の前身・旃檀林(せんだんりん)が置かれ、1000人以上の学僧が学んだという、とても由緒ある歴史があります。

 もともとは、1458(長禄2)年に江戸城を築いた太田道灌が築城の際に井戸を掘ったところ、「吉祥増上」という刻印のある金印を発見し、城内に小さなお堂をつくって吉祥寺としたのが始まりとされています。

明暦の大火で全焼

 今の和田倉門あたりにあったとされる初代の吉祥寺ですが、徳川家康が江戸城の改築を始めると、神田台(水道橋駅付近)へ移ります。ところが、その寺院は1657(明暦3)年に、江戸の大部分を焼き尽くした「明暦の大火」で全焼してしまいます。

江戸城 和田倉門の位置(画像:(C)Google)



 明暦の大火は江戸三大大火の中でも最大の火事で、日本史上最大の火事とも言われており、別名「振袖火事」としてもよく知られています。

 伝承では、身にまとった女性が相次いで死んだという振り袖を供養しようと、本郷の本妙寺で住職が読経しながら護摩の中にくべたところ風が吹き起こり、火がついた振り袖が舞い上がったことで火事が始まったと言われています。もっとも、この伝承は当時すでに作り話として否定されていますが……。

移転したはよかったものの……

 ともあれ、この火事によって吉祥寺は移転を余儀なくされます。

 江戸城本丸まで焼け落ちてしまった幕府では、城の周辺に土地を広くとって火除地(ひよけち。防火用の空地)としようと考えます。

 このときに城内にあった御三家の屋敷なども移転しているのですが、同様に周囲の寺も移転を命じられたというわけです。

文京区本駒込にある諏訪山 吉祥寺(画像:写真AC)

 こうして吉祥寺は本駒込に移転することになったのですが、問題は周囲の住民です。

 この頃、既に由緒ある寺となっていた吉祥寺には参拝客も多く、周囲には門前町もできてにぎわいがありました。ところが移転先の土地にはこうした人々が移転する土地がありませんでした。

移住者たちの奮闘

 そこで、元の住民たちに与えられたのが現在の吉祥寺周辺の土地でした。

 この土地はもともと幕府の萱場(かやば。牛や馬の飼料にする草を刈るところ)だったのですが、幕府は5年期限で扶持(ふち)米、さらに建築費用も貸与という条件で希望者を募りました。

 そうして移住した人たちは、土地を開墾していきます。もともとこの土地は水の便がよくなかったのですが、玉川上水が開通したことで五日市街道沿いは有望な農地として人気になります。

明治初期の地図。吉祥寺村の文字が見える(画像:国土地理院)



 そうした移住者たちが、かつての自分たちの土地にちなんで吉祥寺村と名付けたのが、吉祥寺の町の始まりなのです。

 当初の吉祥寺は東は現在の杉並区や練馬区との境界、西はJR三鷹駅から南北に延びる三鷹通りの間にまで広がっていて大麦や小麦の栽培が盛んに行われていました。

 現在も吉祥寺周辺の道路を見ると街路が短冊状になっていますが、これは新田を地割りしていったことの名残なのです。

 こういったことを知った上で吉祥寺を散歩すると、より楽しめるかもしれません。

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