【実録 東京人vs関西人 1】江戸で爆発した強烈な個性と存在感――「東京の関西人」の活躍は300年以上前から

江戸・東京と、関西・関西人との結びつきを考える、ジェイ・エム・アール生活総合研究所社長の松田久一さんの連載(全4回)。1回目は、江戸時代などの歴史的な背景を振り返ります。


江戸における関西の名残

 江戸時代以前の江戸は、関西からみると辺境の地でした。この関東の港町が巨大な人口100万人を擁する世界最大の都市へと発展したのは、太田道灌(おおた どうかん)の灌漑(かんがい)と徳川家康による江戸開発からです。

 そして、大飛躍していくのは江戸に幕府を置いてからです。

 幕府は、300諸藩の藩主と家臣の約50万人を人質として住まわせ、武士の生活に必要な刀などの商品サービスを提供する職人や商人約50万人を日本橋などに町割りして住まわせました。

 この100万人に必要な物資を供給していたのは、江戸中に張り巡らせた川、壕(ごう)、池などを活用した水路でした。東京の、内堀、外堀、ため池、一ツ橋、竹橋などの地名に名残が残っています。

かつて彦根藩の井伊家屋敷があったホテルニューオータニの場所(画像:(C)Google)

 江戸時代の関西の名残は、霞が関、永田町周辺の地名に残っています。千代田区紀尾井町は藩邸跡になります。有名なところは御三家の紀州藩(和歌山県)、彦根藩(滋賀県)です。

 彦根藩の井伊家は、現在のホテルニューオータニのある紀尾井町にありました。吉田松陰らを「安政の大獄」で処罰した井伊直弼(いい なおすけ)が、ここから江戸城へ参内しようとして「桜田門外」で暗殺されました。

 明治に名づけられた地名の紀尾井町の由来は、紀伊家、尾張家、井伊家から来ています。皇居の桜田門の一帯がそうです。その隣には徳川家臣の直参旗本が住むところがありました。

 明治維新でこの地域の居住者は藩へ帰参したので空き地となり、明治の最初の住宅地=山の手となりました。永田町周辺に江戸時代の関西の名残があり、当時は関西弁で会話がされていたのかと思うと奇妙です。

江戸を生きた著名な関西人


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