2020年初夏、僕たちは立ち止まらざるを得なかった【連載】散歩下手の東京散歩(3)

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2020年初夏、僕たちは立ち止まらざるを得なかった【連載】散歩下手の東京散歩(3)

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友田とん

代わりに読む人 代表

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散歩とは、目的を持たずに歩くことも、寄り道しながら目的地を目指すことも、迷子になってしまうことも、迷子になりたくなくて右往左往することも、すべて包み込む懐深い言葉。出版レーベル「代わりに読む人」代表で編集者の友田とんさんが、日常の風景が一変した2020年初夏の日の自分を回顧します。

酔客さえいない駅の風景

 2020年5月上旬の夜、まだ時刻は20時を回ったところでしたが、東急東横線・学芸大学駅前(目黒区鷹番)の商店街の様子はまるで終電が行った後、深夜25時という風情でしょうか。

 店の明かりはついていても、シャッターは軒並み下りていました。ただ、いつもの深夜25時ならちらほらと歩いている酔っぱらいの姿はありません。季節は違うものの、正月三が日の夜のようです。

 こんな夜の商店街を見る機会はまたとないことかもしれません。そう考えて私はその風景を記憶にとどめました。

文庫本を片手に家を出た

 これまで毎日1時間以上掛けて通勤していた私は一転、自宅で仕事をするようになり、そうなるとどうしても運動不足になってしまいます。

 外出自粛とは言え、それは人と接触するのがよろしくないということ。外の空気は吸ってもいい。いや、むしろ精神衛生上、外の空気は積極的に吸った方がいい。そこでつまり、散歩の出番になるのです。

 朝、夕にまとまった歩数を歩くことで、体だけでなく、精神的な平衡をなんとか保とうとしていたのでした。休みの日なら昼間にも散歩に出掛けてみます。

ふいに歩き着いた昼間の公園にはハトもいた(画像:写真AC)



 いつもなら駅前までまっすぐ歩いてしまうところを、あえて逆の方向に歩き出してみる。文庫本を片手に家を出て路地から通りに出ると、いつもは左に行くところを右に行く。そうすると、近所の公園にたどり着きます。私は石でできたベンチに座って人々を遠くから眺めながら本を読みます。

 そのとき読んでいたのは『ドゥルーズ――解けない問いを生きる』という、フランスの哲学者ドゥルーズについての解説書だったのですが、鉛筆で線を引きながら読んでいると、このどうしようもないコロナ禍の今、読むのにもってこいだなと思ったのでした。

右へ左へデタラメな散歩

 公園を見回すと、サッカーボールを蹴る子供たち、ただおしゃべりしているカップル、椅子に将棋盤を広げて対局するお年寄り、自転車に積んだラジカセの前に集まってタバコを吸いながらラジオに耳を傾ける人たちがいて、特に将棋を指すお年寄りは立て続けに何日か来てみると、どうも毎日集まって将棋を指しているようで、近所に青空の下でこんなに熱心に将棋を指すお年寄りがいることに私は初めて気づいたのでした。

 しばらくすると日差しでまぶしい上に、風が強く吹きはじめたので、落ち着いて本を読んでいられません。私はそこでいよいよ近所の公園からさらにどこかへと散歩に出掛けることにしたのです。

曲がり角を右へ左へ。ときどき立ち止まりながら、目的のない散歩(画像:友田とん)



 しかし、散歩に不慣れな私はどうやったら「いい散歩」になるのかと不安でたまりません。

 交差点のたびに、このまままっすぐ行ってもいいのだろうか。右に曲がったり左に曲がったりしなければいけないのではないか。ずんずんまっすぐ歩いて行ってしまったら、それは上手な散歩とは言えないのではないかと心配になってしまうのです。

 しかし、デタラメに角を右へ左へと曲がって行きさえすればいい散歩になるとも限りません。では、どうしたらいいのでしょうか?

立ち止まると見えるもの

 どうしたら上手に散歩ができるのでしょう。私はこれまでつい目的地に向かってまっすぐ歩いてきたのです。正直、私は足にも体力にもそこそこ自信があり、少々の距離は歩いて行ってしまいます。疲れて立ち止まる人のことを気にもとめていなかったのかもしれません。

 そこで突然、こうした「立ち止まる必要のない」ということが私を散歩下手にしてしまったのではないかと思い当たったのです。つまり、立ち止まらざるをえないとき、私たちは立ち止まったところで目に入ってくるものごとに疑問や興味を抱き、記憶にとどめるということなのです。

背の高い重機。何を建設しているのだろう(画像:友田とん)

 道を歩いていて、信号や踏切で立ち止まる。そこで何かが通り過ぎるのを見る(特急電車でしょうか?)。歩いていたらざーっと雨がきて、軒先で雨宿りをする。雨が上がり、鳥が鳴き出すのを聴く(スズメでしょうか?)。立ち止まったところにこそ、何か私の散歩を、真の散歩にしてくれるものが現れるのです。

 そこでふと思い出したのが、小さい頃にずっと年の離れたいとこを見ていた時のことです。

お手本など要らなかった

 いとこが画用紙にクレヨンで落書きをしていました。絵というよりは、とにかくぐるぐるぐしゃぐしゃと線を描いているだけで、そこで私はそのぐるぐるぐしゃぐしゃと曲線の手本を描き、この通り描いてみてはどうかと言ったのです。ところが、そんな手本は不要である、自由に描けば良いと叔母にたしなめられてしまったのです。

 私が先輩ぶってそんなバカな手本というものを押し付けて見せたのは、きっとその頃書道教室に通っていたからに他なりません。書道は手本の通りに書き写してみるところから練習がはじまります。では、散歩についてはどうでしょうか?

 もちろん、道順を指示する手本の通り歩くなんて窮屈なことはまっぴらごめんです。ですが、テーマはあってもよいかもしれません。草木を見よう、空を見よう、街ゆく人々を見よう、建物を見よう。そういうテーマを持って歩いてみると、いつもの街からもハッとするような発見があるのかもしれません。

 こんなもっともらしいことなど言う気は無かったのですが。

消されてしまった2行目

 さて、そんなことを思いながらいつもの住み慣れた街を右へ曲がり左へ曲がりして、やがて碑文谷公園(ひもんやこうえん、目黒区碑文谷)に着きました。

 ここには割と大きな池があり、多くの人が散歩に来ています。しかし、ここでもコロナの感染予防のため、遊具にはビニールテープが張られ立ち入れません。そして、ぼんやり歩いているとそこに看板が立てられていたのでした。

碑文谷公園で見つけた看板。2行目には何が書かれていたのか(画像:友田とん)



「芝生広場に犬を入れないでください。
 □□□□□□□□□□□
 犬を怖がるお子さんもいます。」

と書かれており、気になったのが上からテープで覆われて隠された2行目にかつて何が書かれていたのかということでした。

 私はここで決して大喜利がしたいのではありません。ただ、その1度は看板に書かれた一文が、後にテープで消されたということに特別な興味をかき立てられたのです。例えば、2行目に

「犬を怖がらないお子さんもいます。」

と書いてあったらどうでしょうか。これは言っていることはただしい。怖がる子もいれば、怖がらない子もいます。しかし、それでは何を言ったことにもなりません。

「猫を怖がるお子さんはいません」

ではどうでしょうか。あるいは、

「芝生が傷みます」

ではどうでしょうか。

人混みを離れグルグルと

 やはり芝生は傷むのではないでしょうか。だとしたら、どうしてこれが消されなければいけなかったのか。いつかあのテープを剥(は)がして下に書かれた一文を見てみたい気もするのですが、そのようなチャンスがやってくるかどうか。

 答えはわかりませんが、私はなかなかいいものを見つけたなとホクホクした気持ちで再び公園を出て右へ左へと歩いて行きます。なるべく人混みの商店街を避けるようにして、商店街や駅を遠巻きにグルグルと渦を巻くロールケーキのように歩きます。

グルグルと渦を巻くロールケーキのように歩いて、たどり着いたのは老舗の「マッターホーン」(画像:(C)Google)



 そうだ、ロールケーキ。そんなことを思い出したら甘いものを食べずにはいられません。帰りに、学芸大学駅の洋菓子店といえばここ、1952(昭和27)創業の「マッターホーン」(目黒区鷹番)でケーキを買って帰ったのでした。

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