松任谷由実『かんらん車』――洋楽と歌謡界をつなぐ「おっとり感覚」 世田谷区【連載】ベストヒット23区(20)

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松任谷由実『かんらん車』――洋楽と歌謡界をつなぐ「おっとり感覚」 世田谷区【連載】ベストヒット23区(20)

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スージー鈴木

音楽評論家。ラジオDJ、小説家。

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人にはみな、記憶に残る思い出の曲がそれぞれあるというもの。そんな曲の中で、東京23区にまつわるヒット曲を音楽評論家のスージー鈴木さんが紹介します。

「世田谷感覚」のただよう駒沢

「ベストヒット23区」、今回いよいよ世田谷区を取り上げます。

 1986(昭和61)年、大学入学のために上京、川崎市の溝ノ口に住んだ私(スージー鈴木。音楽評論家)は、都内にある大学への通学のために、東急新玉川線(当時。現在の田園都市線)で、毎日通り過ぎていた世田谷区を「上品で、どこかおっとりとした街」だとイメージしていました。

 その新玉川線で、三軒茶屋駅と桜新町駅の間が駒沢大学駅。子どものころの私が「駒沢大学」(世田谷区駒沢)という大学を認識したのは、1970年代中盤のお笑い界を席巻したせんだみつおの出身校として、でした(ただしせんだは、駒大を2年で中退)。

駒澤大学の外観(画像:(C)Google)



 せんだみつおの著書『ナハ』(東京書籍)によれば、人気のピークに上り詰めた1977(昭和52)年、せんだは世田谷区の、森繁久彌邸から「歩いて七、八分くらいのところ」に一軒家を購入。しかし、その直後の1978年12月に疲労がたたって入院し、一気に「落ち目」(当時のせんだがよく使った言葉)になるのです。

 でも、その『ナハ』でせんだみつおは、「落ち目」になるというシビアな話を、実に明るく軽妙な筆致で書き表しています。このあたり、世田谷に学び、世田谷に住み続けた人ならではの、おっとりした「世田谷感覚」なのかも知れません。

駒大出身の重要なふたりのミュージシャン

 せんだみつおを生んだ駒沢大学は、日本音楽史に非常に重要な役割を果たした音楽家も輩出しています。その名は、大沢(現・大澤)誉志幸と久保田利伸。

 このふたりには、出身大学以外にも共通点があります。ひとつは黒人音楽への傾倒、そしてもうひとつは、黒人音楽/洋楽寄りの音楽性を持っているにもかかわらず、歌謡曲の作家として世に出たということ。

 大沢誉志幸は、自身の初ヒット『そして僕は途方に暮れる』(1984年)で知られる以前に、歌謡曲の作曲家として、いくつもヒットを飛ばしていました。

1984年発売の大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』(画像:エピックレコードジャパン)



 沢田研二『おまえにチェックイン』(1982年)、『晴れのちBLUE BOY』(1983年)、山下久美子『こっちをお向きよソフィア』(1983年)、極めつけは、中森明菜4枚目のシングル『1/2の神話』(1983年)――。「デビュー前に100万枚売った男」という触れ込みもあったと聞いています。

ファンキーさの中の「世田谷感覚」

 また久保田利伸も、大沢誉志幸ほどではないのですが、デビュー前の1985年、作曲家として田原俊彦に『華麗なる賭け』と『It’s BAD』を提供。特に『It’s BAD』は、ラップと歌謡曲を融合させた先駆的作品です。

1986年発売の久保田利伸のデビューシングル『失意のダウンタウン』(画像:ソニー・ミュージックエンタテインメント)

 ちなみに、デビュー前の久保田利伸が業界関係者向けに制作した「すごいぞ!テープ」というデモテープを当時、私は入手したのですが、そこに収録されていた、ラップの部分を際立たせた『It’s BAD』のファンキーさぶりに、腰が抜けるほど驚いたものです。

 それにしても、その後の日本の「ファンキー界」を背負うふたりの駒沢大学OBが、共に歌謡界と積極的に交わったのも、「歌謡界なんて敵だ」「自作自演じゃなきゃファンキーじゃねぇ」などと息巻くことのない、おっとりした「世田谷感覚」だとするのは、少々無理があるでしょうか。

ユーミンの著作からも「世田谷感覚」

 と、エンタメ界における「駒沢大学閥」を見て来ましたが、やはり「ベストヒット世田谷区」を考える上で、松任谷由実の存在は外せないでしょう。何といってもユーミン、世田谷在住であり、さらには世田谷区の「名誉区民」なのですから。

 今回、「ベストヒット世田谷区」として推したいのは、アルバム『流線型’80』(1978年)収録の『かんらん車』です。実は、ここで歌われる観覧車は、1985年に閉園した世田谷区の遊園地「二子玉川園」のそれなのです。

1978年発売の松任谷由実の『流線型’80』(画像:EMI Records Japan)



 松任谷由実『ルージュの伝言』(角川書店)によれば、ユーミンが多摩美術大学(こちらの「上野毛キャンパス」も世田谷区)の入試に向かい、時間が余ったので、上野毛駅の一駅先の二子玉川園駅(当時。現二子玉川駅)に降り立ったときの経験を基に書かれています。

「多摩美の試験の日、家を早く出たの。渋谷まで出て、東横線で自由が丘に乗り換えて上野毛まで行くんだけど、時間が早かったからね、気まぐれに乗り越したのよ。二子玉川園で降りたの。そしたら雪が降ってきたのね。わーって。ほろとかが乗り物にかけてあってね。わんわんわんわん雪が降ってきて、あっ、これは受かるって思ったの」

 上野毛駅に行くのに、渋谷駅から自由が丘駅を経由しているのは、二子玉川園駅に世田谷区経由で直行する新玉川線がまだ開通していなかったからです。それにしても、雪を見て「これは受かる」と確信するあたりが、とてもユーミンらしい!

洋楽感覚と歌謡界をつなぐ「世田谷感覚」

 そう言えばユーミンも、呉田軽穂名義による松田聖子への楽曲提供に代表されるように、歌謡界と積極的に交わった人でした。このあたり、やはり大沢誉志幸、久保田利伸と共通する「世田谷感覚」なのかもしれません。

閉園5年前。1980年頃の二子玉川園の様子(画像:国土地理院)

 1977年、開通した東急新玉川線が渋谷駅と二子玉川園駅をつなぎ、1980年代、「世田谷感覚」の音楽家が、洋楽感覚と歌謡界をつなぎます。そして1986年、上京した私が新玉川線に乗り始めるのですが、二子玉川園はすでに閉園。駅から観覧車を見ることはかなわなかったのです。

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