幕末の偉人・ジョン万次郎も漂着した、アホウドリの楽園「鳥島」をご存知ですか【連載】東京無人島めぐり(1)

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幕末の偉人・ジョン万次郎も漂着した、アホウドリの楽園「鳥島」をご存知ですか【連載】東京無人島めぐり(1)

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大石始

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東京都内に330もある島――その中でも無人島の歴史についてお届けする本連載。1回目となる今回の島は「鳥島」。案内人は、ライター・エディターの大石始さんです。

絶海に浮かぶ孤島

 19年3か月――。これは、日本における最長の無人島生活日数といわれています。

 探検家・作家の高橋大輔の著作『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』(草思社)によると、1719(享保4)年11月、遠州新居(現在の静岡県湖西市)の甚八ら12人を乗せた千石船が遭難。

 翌年の1月末、甚八たちは命からがら伊豆諸島の最果ての島に漂着しました。それから19年もの歳月が経過した1739(元文4)年に新たな遭難船が漂着し、甚八たちが脱出に成功したときには、最初12人だった船員はわずか3人になっていたといいます。

鳥島の全景(画像:海上保安庁)



 甚八たちが流れ着いたその島とは、東京から南へ約600kmという絶海に浮かぶ孤島、鳥島でした。

アホウドリの繁殖地

 特別天然記念物に指定されているアホウドリの繁殖地ともなってきたこの島は、周囲約7kmほどの火山島。現在は無人島となっていますが、記録として残されているだけでも数多くの遭難者が流れ着きました。

アホウドリ(画像:写真AC)

 井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』(1938年)で取り上げられた、ジョン万次郎こと中浜万次郎もそのひとり。1841(天保12)年1月に鳥島に漂着した万次郎たちはアホウドリなどを食べて約4か月を生き抜いたあと、アメリカの捕鯨船に救出されます。

 ただし、当時の日本は鎖国状態。そのため、万次郎は他の乗員がハワイで下船するなか、そのまま捕鯨船に乗ってアメリカ本土へ。捕鯨船や金鉱で資金を得ると、1853(嘉永6)年には故郷・土佐への帰郷を果たしました。

断崖絶壁、過酷な無人島生活

 川も湧き水もなく、断崖絶壁に囲まれた厳しい自然環境のなか生き抜いた漂流民たち。彼らはアホウドリを捕まえて干し肉にし、その皮や羽は衣類にしました。釣りの道具も自作し、魚やウミガメを食べて飢えを耐え忍んだといいます。

 そうした漂流民たちの苦闘は、さまざまな文学作品のなかで描かれてきました。小説家・織田作之助は甚八らの漂流奇談を『漂流』(1942年)で取り上げたほか、吉村昭の長編小説『漂流』(1975年)では1785(天明5)年2月に島へたどり着いた土佐の長平がモチーフとなっています。

吉村昭の長編小説『漂流』(画像:新潮社)



 長平の無人島生活も過酷を極めました。彼の無人島生活は12年4か月に及びましたが、仲間たちが次々に命を落としていったことから、そのうち1年5か月間は単独での生活を強いられます。水も食料も限られた絶海の孤島で、たったひとりで1年以上も生き続けること――。その過酷さは私たちの想像を超えるものでもあったはずです。

漂流民たちが生き伸びた理由

 前出の高橋大輔は『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』のなかで、長平が生き伸びることのできた理由を推測しています。

 容易に捕獲できるアホウドリばかりを食べるのではなく、魚介類を含むバランスのいい食事を心がけていたこと。月の満ち欠けを元に年月を把握していたこと。1日の飲む水の量をアホウドリの卵の殻ひとつぶんと決めていたこと。そして、高橋は長平ひとりが生還した理由をこのように結論づけます。

「苦労をしながらも彼は数値化や規律化によって十分な食料や水を得ることができた。それが死の恐怖に打ち勝つ自信や安心感を生み出したのだろう」(高橋大輔『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』)

 漂流民のなかには精神のバランスを崩し、自殺した者も少なくなかったといいます。長平は合理的かつ規律正しいライフスタイルを送ることにより、精神の崩壊を逃れ、結果として生き残ることができたともいえるでしょう。

鳥島の火口周辺(画像:海上保安庁)

 永遠に続く孤独を生き抜いた漂流者たちからは、コロナ以降のサバイバル術を学ぶこともできるかもしれません。

現在、一般人の上陸は禁止

 明治以降の鳥島には、一獲千金を狙った開拓者たちもやってきました。中でももっとも知られているのが、八丈島生まれの玉置半右衛門です。

 彼は明治20年代に島の開拓を始めると、ヨーロッパで高値で取引されていた羽毛を手に入れるため、大量のアホウドリを乱獲。1902(明治35)年には大規模な噴火が起こり、住民125人全員が死亡しますが、その惨劇は当時「アホウドリのたたり」ともいわれたそうです。

 1928(昭和3)年には奥山村が開村。牧畜や漁業、クロアシアホウドリやオーストンウミツバメの羽毛採取などで生計を立てようとしますが、その集落も1939年の噴火によって消滅。

 約30人の島民は辛うじて避難したものの、以降は気象庁の気象観測所が建ち、観測員が調査のため滞在したぐらいで、一般人の入植が行われることはありませんでした。1965(昭和40)年には再度噴火の恐れが高まったことから観測員も撤退することになります。

2002年に噴火した鳥島(画像:海上保安庁)



 現在、鳥島はアホウドリの天然保護地域に指定されており、一般人の上陸は禁止。一時期は絶滅状態となったアホウドリの生息数も少しずつ回復しており、調査や繁殖に関する活動が地道に行われています。

 さまざまなドラマの舞台となってきた東京の孤島、鳥島。現在も太平洋の大海原にその島影を浮かび上がらせています。

●参考文献
・高橋大輔『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』(草思社)
・山階鳥類研究所「アホウドリ 復活への展望」

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