離ればなれの2頭を一緒にしてやりたい
南極観測で活躍したカラフト犬の「タロ」のはく製が、北海道大学植物園内の博物館(札幌市)にあるのをご存じでしょうか。
でも、一緒に生き残った「ジロ」は南極・昭和基地で亡くなり、祖国へ運ばれてはく製になりました。現在は国立科学博物館(台東区上野公園)内に置かれています。
少し前の話ですが、いまは亡き芥川賞作家の高橋揆一郎(たかはし きいちろう)さんらが、2頭を一緒にしてやりたいと呼びかけたものですが、実現しないまま時が流れました。
札幌でタロの姿を見るたびにふびんさが募るのは、あのとき、観測隊がイヌを置き去りにしてきた行為が、いまなお心に引っかかるからでしょうか。
ブリザードに見舞われた観測船「宗谷」
わが国の南極観測隊が初めて現地に入ったのは1956(昭和31)年。観測隊は1年間にわたり探検、調査を続け、同行した22頭のカラフト犬は荷物の運搬などに従事しました。
交代期になり、観測船宗谷(そうや)が次の観測隊員を乗せて、南極大陸に近づきましたが、ブリザードが吹き荒れて接岸できません。やむなく第1次越冬隊11人を飛行機で運び、船に移しました。しかし15頭のイヌを運ぶことができません。
隊員たちは「すぐに次の越冬隊がくる。かわいがってもらうんだよ」と言いながら、鎖でつなぎ、食料を置いて、後ろ髪引かれる思いで帰国したのです。
だがブリザードは収まらず、第2次越冬隊も送り込めないまま引き上げました。それを知った全国の子どもたちから「イヌがかわいそう」と非難の声が上がりました。救出を願う署名運動が行われ、8000人が署名しました。
1年後に発見された2頭「生きている!」
1年が過ぎて1959(昭和34)年1月14日、第3次観測隊を乗せた宗谷から1番機が南極基地へ飛びました。この飛行機に第1次のイヌ担当の隊員が機上していたのです。
飛び立ってすぐ、いきなり凍氷の地上を動き回る物体が目に飛び込んできました。
「あっ、生きているっ」
隊員は絶叫しました。着陸した飛行機に向かって走ってくる2頭のカラフト犬。一番若い兄弟のタロとジロです。兄弟イヌは鎖をちぎって自由の身となり、極寒の地で生き抜いたのです。
おそらくアザラシの肉やペンギンのフンを食べて生き延びたのでしょう。相前後して5頭の死体が見つかりました。
この情報がもたらされると、国内は感動と歓喜に沸き立ちました。全国の子どもたちから励ましの便りや「おいしい食べ物を食べさせてあげて」と、お金も送られてきました。
タロだけが生きたまま帰還、札幌の地へ
タロとジロは第3次越冬隊とともに、さらに1年間過ごしますが、この間にジロは体調を崩して死にます。隊員は悔し涙を流しました。
任務を終えた隊員はタロと、はく製になったジロとともに観測船で帰国しました。はく製のジロは東京の晴海岸壁に降ろされ、ジロと別れたタロは札幌の北海道大学植物園に送られ、余生を送りました。
植物園はタロに会いたいという子どもたちが親子連れでにぎわいました。しかしタロは1970(昭和45)年8月、亡くなってしまいました。
忠犬ハチ公とともに展示されているジロ
筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は久しぶりにジロに会おうと、上野の国立科学博物館を訪れました。
タロ同様に真っ黒な毛に覆われたたくましい姿です。でも人間の甘い感傷なのでしょうか。少し寂しげに見えて、やはり2頭を一緒にしてやりたい、という思いが強まりました。
思いがけなくジロのほかに、2頭のイヌのはく製が並んでいました。何と隣にいるのは、あの有名な「忠犬ハチ公」なのです。そしてもう1頭は、山梨県生まれの名犬「甲斐犬(かいけん)」でした。
なぜここに3頭のはく製の犬が並んでいるのでしょうか。その経緯はもとより知りませんが、見ているうちにめまいを覚えたような心地になって、思わず座り込んでしまいました。
ジロのはく製を前にしてこみ上げた思い
ここに並んだイヌたちには当然、歩んできた道のりがあります。しかしはく製になった段階で、人間たちの都合により、陳列場所に置かれたのでしょう。
イヌたちは何も言いませんが、なぜか人間どもの身勝手さを訴えているようにも見えて、たじろぐ思いでした。
ジロ、勝手なことを思ったりして、ごめんね。
それから、ハチ公クン、甲斐犬クンも、ごめんね。
でもそうわびながら、少なくともジロだけはタロと一緒にしてやりたい、という思いが募るのでした。