携帯電話「ひとり1台」時代の礎を築いた、PHSという革新的存在

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携帯電話「ひとり1台」時代の礎を築いた、PHSという革新的存在

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星野正子

20世紀研究家

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スマートフォン全盛の現在、医療現場などを除いて使われなくなったPHS。その歴史について、20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

来たる5G時代

 テレビCMなどで見かける機会の増えた、携帯電話の新規格である第5世代移動通信システム(5G)。そんな5Gは現在の携帯電話よりも高速で大容量の通信が行え、ひとつの基地局からの同時接続数も飛躍的に増加すると言われています。

 東京五輪は2021年の延期が決まりましたが、都内各地ではそれに向けて基地局の整備が進行。3月にはNTTドコモとソフトバンクが一般向けサービスを開始しています。

「2019年から携帯電話が新たな時代を迎える」と5Gに対して期待をする人がいる一方、「そんな大容量通信が必要なのか」といった意見を述べる人もいます。

 しかし開始当初は無駄な投資と批判されたインフラが、後から「やってよかった」となるのは、これまでの歴史で何度も起こってきました。

 思い出してみましょう。つい30年ほど前までは携帯電話をひとり1台持つなんて思いつきもせず、「そんなに必要?」と思われていたのです。ましてや、当時は弁当箱のようなサイズでとにかく巨大。

 そんな、億万長者やビジネス目的の人しか使っていなかった携帯電話が小型化し、実用的になったのは1994(平成6)年頃からでした。

 この年の4月、それまで本体がレンタル品だった携帯電話端末の買い切り制度が導入されます。これによって、基本料金がそれまでの1万2000~1万5000円から、7300円~9500円と大幅にプライスダウン。通話料を高くしたプランは、基本料金4000円台で使えるようになりました。

PHS登場、基本料金は「ポケベル並み」の衝撃

 それでも、端末価格は8万~15万円とけっこう高額。通話料も3分で190~260円(市内)と、おちおち長電話もできない価格でした。結局、

「携帯電話なんて、ビジネス目的の人が持つものだよね」

と、多くの人は自宅の電話でおしゃべりし、全盛期のコギャルたちはポケベルで連絡を取り合っていました。

 そこに、ひとつのニュースが流れ始めます。端末料金が携帯電話の半額以下で、通話料は公衆電話並みの新たな携帯電話ができるらしい……と。

 その名は「パーソナルハンディホン」。1993(平成5)年10月からNTTなどが札幌市内で実験を行い、実用化に向けた準備が始まっていました。

千代田区の秋葉原電気街で行われたPHS電話のキャンペーン。1995年10月撮影(画像:時事)



 まだサービスが開始されていない時期から、この新たな携帯電話は注目されました。というのも基本料金はポケベル並みの3000~5000円で、市内通話料は3分で30~50円。音声も携帯電話よりクリアで、当時は携帯電話の電波が届かなかった地下街などでも使えるなどなど、優れた電話であるという情報があちこちで話題になったのです。

 その新たな通信端末話は当初パーソナルハンディフォンを略して「PHP」と呼ばれていましたが、その後、「パーソナルハンディフォンシステム」を略した「PHS」の名前で1995年7月からNTTパーソナルとDDIポケットが、少し遅れて10月からアステル東京がサービスを開始します。

 ところが前年からの盛り上がりに比べて、一般ユーザーは思ったよりも冷ややかでした。

「走ると通話が切れる」というイメージ

 というのも、人々のPHSに対するイメージは「走ると通話が切れちゃう携帯電話」というものだったからです。

 携帯電話とPHSの大きな違いは電波の届く距離です。

 携帯電話の電波が基地局から10km程度まで届くのに対し、PHSは最大でも基地局の周囲500mまで。しかし、携帯電話は基地局ひとつあたり2~3億円の設置費用がかかりましたが、PHSは高くても数百万円。おまけに電話ボックスや電柱に載る程度の小型のものでした。

PHSのアンテナのイメージ(画像:写真AC)



 その設備投資の少なさが料金の安さに反映していたわけですが、それでも切れやすいのは事実。クルマの中ではプチプチと切れて、話はできません。走っていても切れるので、通話のときはゆっくり歩くか立ち止まらないと無理です。

3社の機能を比較した結果

 いったい、どの程度つながったのか。3社のサービスが始まった直後の『週刊プレイボーイ』1995年11月21日号では、各社のPHSを手に実験を試みています。

 これによれば、都庁の展望台でしっかりつながったのはNTTパーソナルのみ。DDIポケットはまったくつながらず、アステル東京は北東の窓付近で辛うじてつながる状態でした。

 ボウリング場・新宿コパボウル(新宿区歌舞伎町)での実験では、アステル東京がどこでもつながるのに対して、NTTパーソナルは1~9レーンのみ。DDTポケットは9~18レーンのみ。

 東京駅の丸の内地下通路ではDDIポケットがまったくつながらず、アステル東京は連絡通路と改札周辺のみ。さらに後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ。文京区後楽)のジェットコースターに乗って通話を試みていますが、ここでは3社ともつながったそうです。

東京ドームシティアトラクションズのジェットコースター(画像:写真AC)

 というわけで、各社とも基地局の設置に必死だったものの、どこでもつながるレベルまでには追いついていなかったのです。

長く続かなかった繁栄

 それでも基地局の整備が続くと、携帯電話と比べた圧倒的な安さが次第に目を引くようになります。

 各社は発売当初から代理店方式を採っていたため、サービス開始時点で端末価格は25%引きが当たり前でした。安売りで知られた渋谷の城南電機は、これを越える3割引きで販売をスタートしました。

 3社の競争が激化すると、ついに端末は100円に。そして新規契約なら無料へと変わっていきました。こうなると、ポケベルからの乗り換えも急増し、それまでポケベルすら持っていなかった人もPHSの購入を決意するようになっていったのです。

 こうしてPHSは急速にユーザー数を伸ばしますが、繁栄は長くは続きませんでした。

 1997(平成9)年頃になると、携帯電話各社が通話料金の値下げを開始。価格差は埋まっていきます。PHS各社は高速な通信速度を生かした定額制のモバイルデータ通信に活路を見いだそうとしますが、それでも携帯電話に勝つことはできず、市場は縮小していきました。

今や当たり前となった、ひとり1台の携帯電話(画像:写真AC)



 今や完全に過去のものになってしまったPHS。しかし、携帯電話をひとり1台持つという時代は、PHSなくしては生まれませんでした。スマホ文化が咲き誇るこの時代は、PHSによって基盤がつくられたと言えるでしょう。

 しかし、なぜ皆がPHSを持たなければと思ったのかーー。出会いやコミュニケーションツールとしてのPHSの意義は、また改めて書こうと思います。

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