童謡「赤い靴」の真実 女の子は異人さんに連れて行かれはしなかった
2020年5月1日
知る!TOKYO子どもの頃、誰もが1度は口ずさんだことのある童謡「赤い靴」。そこに歌われた女の子の数奇な運命をご存じですか? ノンフィクション作家の合田一道さんが、彼女の短い生涯をたどります。
今、彼女がたたずむ麻布十番、横浜、留寿都
ところが「赤い靴」が発表されて半世紀も過ぎた1973 (昭和48)年初冬、北海道新聞の読者欄に、富良野市に住む女性から投書が寄せられたのです。
きみの妹に当たる方からで、そこには、母かよはすでに亡(な)いが、生前、外国人宣教師に養女に出したきみのことを悔やみ、かわいそうなことをしたと話していた、と書かれていました。
この投書に着目した北海道テレビのプロデューサーがきみの妹に会い、アメリカに飛んできみを養女にした宣教師を探し、ヒュエット夫妻の存在を突き止めました。しかし、女の子がアメリカに来たという事実はつかめないままでした。
では、きみはどうなったのか。追跡調査の結果、宣教師夫妻に突然、転動命令が出て、病弱だったきみを残して日本を離れたこと。きみは東京都港区の麻布十番にあったメソジスト孤児院で暮らすうち、わずか9歳で亡くなっていたことなどが判明したのです。

きみの墓は青山霊園(港区南青山)、鳥居坂教会の共同墓地にあります。十字架のついた墓の裏側に「墓誌」として、亡くなった人々の名が見えます。上段の右から11番目の「佐野きみ」がそれに当たります。佐野姓は実の父親の姓です。
赤い靴の女の子の像は、横浜の波止場に近い山下公園(横浜市中区)にありますが、ほかに東京の青山霊園管理事務所の玄関脇や生誕地の静岡市、北海道の小樽市、それに両親が入植した留寿都村にもあります。
小樽の運河公園は両親が晩年を暮らして亡くなった地で、ここには「赤い靴・親子の像」が、また静岡の日本平頂上には、かよときみが手を取り合う「母子像」が、留寿都にはきみの「母思像」と、かよの「開拓の母像」が、離れて立っているのです。
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