足立区の「下町魂」いまだ健在 ビートたけしに学ぶ「忖度しない力」とは

お笑い界の超大物として,マルチな才能を発揮するビートたけし。そんなビートたけしは歯に衣着せぬコメンテーターとしても知られています。その“抵抗”の原点は何でしょうか。社会学者で著述家の太田省一さんが解説します。


母親がそそいだ教育熱

 さきは、子どもの教育にとても熱心でした。時代は高度経済成長期。これからは専門職が重宝され、学歴が物を言うとさきは考えたのです。父親・菊次郎が酔っ払って帰ってくると、さきはたけしの兄たちを外へ連れ出し、自分は自転車のライトのようなもので本を照らしながら街灯の下で勉強させたと言います。

ビートたけしと母親・さきとの生活を描いた『菊次郎とさき』(画像:新潮社)

 そのなかで末っ子のたけしは、さきの手を焼かせました。

 当時の男の子がみなそうだったように、小学生のたけしは野球に夢中になりました。しかし教育熱心なさきは、野球をすることを厳しく禁じました。するとたけしも対抗して、グローブを家の庭の土中に埋めて隠しました。

 ところが、ある日たけしが野球をしようと掘り起こしてみると、そこにはグローブの代わりにさきが埋めた参考書が入っていました。

 ただ学校の成績も優秀だったたけしは、さきの希望通り大学に進学します。入学したのは、明治大学工学部でした。

学生運動に感じた違和感と欺瞞

 しかしそこでたけしの人生は大きく変わります。彼は大学になじむことができず、次第に大学から足が遠のいていきました。そして通学途中にあった新宿の街に入り浸るようになります。

 1960年代後半の当時、世界的な反体制運動の一環として学生運動が盛んになっていました。とりわけ新宿は、そうした若者の集まる代表的な街になっていました。

 そんな時代のなかでたけしも学生運動に参加したこともありましたが、そこまで熱心になることはありませんでした。

昔ながらの喫茶店のイメージ(画像:写真AC)

 また新宿のジャズ喫茶では、学生たちがマルクスやレーニン、サルトルといった名前を口にしながらいつも議論を交わしていました。たけしもそれに加わろうとしてみましたが、それにもやはりなじめませんでした。

 自分が目にする同年代の若者たちの姿に、たけしはどこかうそくささを感じていたのです。

最後に行きついた浅草の地


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