NHK連続テレビ小説「エール」に見る 古関裕而と日本コロムビアの歩み

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NHK連続テレビ小説「エール」に見る 古関裕而と日本コロムビアの歩み

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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3月30日から始まったNHK連続テレビ小説「エール」を通じて、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが戦前のレコード産業の歴史を解説します。

作曲家・古関裕而と妻を描いた作品

 NHK連続テレビ小説の通算102作目に当たる「エール」が、2020年3月30日(月)から始まりました。同シリーズの1作目は1961(昭和36)年なので半世紀以上続いていることになり、日本人の生活に定着した番組だと言えるでしょう。

NHK連続テレビ小説「エール」のウェブサイト(画像:NHK)



「エール」は、昭和という激動の時代を生き抜き、人々に寄り添う数々の名曲を生み出してきた作曲家・古関裕而(ゆうじ)とその妻・金子を主人公のモデルにしており、それぞれ窪田正孝と二階堂ふみが演じています。

 主人公は1909(明治42)年、福島の老舗呉服屋に生まれます。幼少の頃から音楽に親しみ、独学で作曲の才能を開花させていきます。

 一度は夢を諦めようとしますが、海外の作曲コンクールに入賞し、道が開かれていきます。古関はクラシックからポピュラーへ転身するのですが、当時の音楽状況はいったいどのようなものだったのでしょうか。

音楽の産業化は蓄音機の発明から

 音楽の産業化は、19世紀末のエジソンによる蓄音機の発明からと言われています。この蓄音機は円筒型と呼ばれ、録音再生が可能でした。

 その後、米国の発明家であるエミール・ベルリナーが円盤型に改良し、普及。日本にも蓄音機は輸入されました。これが後のアナログレコードプレーヤーの原型に当たあります。

古関裕而・金子夫妻(画像:福島市)

 当時は高価な代物で、顧客はもっぱら富裕層。そのため、蓄音機を持っている富裕層の家や公共の施設で聴くしかありませんでした。その後、カフェで聴くという形態も生まれました。

日本に続々と生まれたレコード会社

 輸入されたクラシックはもちろんのこと、日本は民謡や講談、浪花節などの国産アイテムが増えていったため、レコード会社は東京や大阪、京都、神戸、奈良、名古屋などに誕生していきます。そして、大資本の会社が小さな会社を次々と飲み込んでいったのです。

 会社が成長するためには、外部との関係が重要です。

 各会社が近接して立地することで、集積のメリット(外部経済効果)を受けられるからです。各会社の地理的距離が近い場合、交渉や物流、コスト面などで利便性が高まるのです。そのため、同業種や関連会社が同じ場所に集積し始めます。

 それでは、まず「エール」が描く昭和初期を見ていきましょう。

 モデルの古関裕而が専属契約を結んだのは、日本コロムビアです。同社の前身は、1910(明治43)年にアメリカ人のF.W.ホーンが銀座に設立した日米蓄音器商会(後の日本蓄音器商会)です。それに先だち、ホーンは1907(明治40)年に日米蓄音機製造を川崎に創業しています。

港区虎ノ門にある、現在の日本コロムビアの外観(画像:(C)Google)



 日米蓄音機製造は蓄音機の製造、販売が当初の目的だったようですが、やがて後のレコード会社に見られるように、ハード(家電)とソフト(レコード)の両輪を主な事業としていきます。

戦前に黄金時代を迎えた日本コロムビア

 2代目社長に就任したJ.R.ゲアリーは企業の合併・買収(M&A)を積極的に手掛け、日本蓄音器商会は戦前を代表するレコード会社となっていきます。

円盤型蓄音機のイメージ(画像:写真AC)

 日本蓄音器商会は1928(昭和3)年、日本コロムビアに社名を改称。前年にゲアリーは株を英国コロムビアと米国コロムビアに売却したため、同社は外資系企業になっていました。そんな日本コロムビアと古関が専属契約を結んだのは、1930(昭和5)年のことでした。

 当時日本ビクターは作曲家の中山晋平、佐々紅華(さっさ こうか)、作詞家・時雨音羽(しぐれ おとは)、西條八十(さいじょう やそ)などの専属作家を擁し、流行歌を独走していました。1931年には古賀政男と、1936年には服部良一と専属契約を結びます。西條も1932年に移籍、日本コロムビアの戦前の黄金時代が始まります。

 一方、ライバルの日本ビクターは日活など映画会社とのタイアップで対抗します。しかし平穏な時代もわずか、日本は戦争に突き進んでいくことに。外資企業だった両社はその後、鮎川義介率いる日本産業に組み込まれ、東京電機(現・東芝)に売却されます。

レコード会社とメディアの近接性

 当時、日本コロムビアの録音スタジオは東洋拓殖ビルの中にありました。1965(昭和40)年に本社を赤坂に移転して録音スタジオを新設するまでは、ここを使用していたようです(ビル名称は第2大倉ビルと変わります)。

 東洋拓殖は戦前、南満州鉄道と並ぶ国策会社です。このビルも元々、台湾総督府東京出張所のビルでしたが、そこに東洋拓殖が入居しました。このビルの敷地は鹿鳴館(ろくめいかん)の庭のあったところで、現在はみずほ銀行内幸町本部ビルが建っています。

みずほ銀行内幸町本部ビルの外観(画像:(C)Google)



 この辺りは明治以降、町名や境界が何度か変更されていますが現在の地名でいうと内幸町です。1935(昭和10)年に日本放送協会(NHK)が愛宕山から内幸町へ移転。古関も日本放送協会のラジオ放送で生演奏したというエピソードもあるため、レコード会社とメディアの近接性メリットはこの時代からあったのかもしれません。

 近接性とは「徒歩圏」ぐらいの近さで、電話1本でお互いの会社をすぐに行き来し、また近隣の喫茶店で落ち合えるということです。

 ちなみに、日本ビクターは録音スタジオを1940(昭和15)年に神田から築地に移転。同じく外資のポリドールは神宮前、講談社が設立したキングは音羽、奈良に本社があったテイチクは堀ノ内にありました。

5000曲を手掛けた古関裕而

 大正末期以降、東京は新聞や出版、放送とマスメディア隆盛期を迎え、それらが集積する銀座、有楽町辺りに戦前の二大レコード会社の部署、録音スタジオも移転します。戦後間もない時代はこのような状況がしばらく続きます。

 古関裕而は戦前・戦後を通じて数々の作品を作曲しました。歌謡曲、軍歌、そして応援歌です。その数は5000曲に登るとも言われています。

 古関の作品でなじみ深いのは応援歌です。例えば早稲田大学第1応援歌「紺碧(こんぺき)の空」、慶応義塾大学応援歌「我ぞ覇者」などの大学応援歌、阪神タイガース球団歌「六甲おろし」などの球団応援歌、そして全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」などです。

 春の選抜高校野球大会は中止になりましたが、夏の風物詩の全国高校野球選手権大会はどうなるのでしょうか。「エール」というドラマのタイトルの意味を改めて考えてみようと思います。

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