年収90万円なので東京で「野草採り」に挑戦してみたら得るものが多過ぎた【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(5)

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年収90万円なので東京で「野草採り」に挑戦してみたら得るものが多過ぎた【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(5)

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大原扁理

隠居生活者・著述家

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何とは言えないのだけど何となく息苦しい。そんな気持ちでいる人へ、東京で週休5日・年収90万円という「隠居生活」を実践した大原扁理さんに生き方のヒントを尋ねる企画「トーキョー知恵の和」。今回のテーマは「東京と『野草』」です。

そもそもなぜ、野草を食べようと思ったのか

 カフェに入ればコーヒー1杯数百円、ランチセットは1000円オーバー。自炊のためにスーパーで買う食品も、消費税増税以降は価格上昇が続いています。東京で週休5日・年収90万円の「隠居生活」を実践した大原扁理(おおはら・へんり)さんは、多摩川沿いで野草を摘んで日々の食事に取り入れていたのだとか。……東京で野草生活? と思うかもしれませんが、そこには現代社会の価値観に疑問を持つ人にとってたくさんの「ヒント」があふれていました。(構成:ULM編集部)

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大原さんの「野草生活」の様子を描いたイラスト(大原扁理さん制作)



 東京の郊外に住んでいたころ、野草を摘んできて調理し、食卓を無料で彩ったりして楽しんでいました。

 東京に食べられる野草はない、と多くの人が思っていることでしょうが、意外とそのへんに、食べられる草って生えているんですよね。

食品はスーパーで買う以外にないの?

 そもそもなぜ野草を食べるようになったのか。私にはずっと不思議だったのです、どうして食べ物をスーパーで買わなくてはいけないのか。

 肉や魚ならまだしも、柿やギンナンなんて、季節になると近所の空き家や公園にたくさんなっている。それなのに、ほとんど収穫されずに、落ちて腐ってほったらかし。

 あれって、そのまま食べたらダメなのかなぁ? 野生の動物はそのへんに自然にあるものを食べているんだし、人間だってスーパーがなかった大昔は、食材を自分で採っていたに違いありません。

 そこで野草のことを図書館やインターネットで調べ、近所を散歩するついでに注意深く見てみると、あっさりと次々発見。今まで素通りしていたなんて、道がもったいない……。

自分の「野草マップ」を描いてゆく

 ひとたび野草を発見すると、面白くなってきて、行動範囲がぐんぐん広がっていきました。私は国分寺市に住んでいたのですが、多摩川くらいまでなら自転車でよく行ってました。

 そうして頭の中に、食べられる野草マップを作っていきます。近所の貯水池のまわりにはフキが、お隣さんの敷地内にはオオバが(こちらは許可をとって採取)、国立の大学通りではギンナンが。

 そしてなんといっても多摩川沿いはヨモギ、ノビル、イタドリ、ノカンゾウと、野草の宝庫でした。

大原さんが野草を摘んでいた多摩川周辺(画像:(C)Google)



 私が「猟場」としていたのは、日野橋~府中四谷橋にかけての、北側の土手です。以前、草嫌いのお笑い芸人・カズレーザーさんと一緒に草を食べる(笑)、というテレビロケをしたときも、このあたりで撮影しました。

野草を摘むことで、気がつくこと

 野草を摘む生活をしていると、自分のなかで起こる変化に気がつきます。

・町の解像度が上がる、自由度が上がる
 道端に食べられる野草がふつうに生えていると気がつくと、いつも何気なく歩いている町が、新しい意味を持ち始めます。その気になれば、無料の24時間青空スーパーが目の前に広がっている。

・食べられるのがありがたくなる
 食べるものは絶対にお店で買ってこなくてはいけない、というわけじゃないんだな~と思えるだけで、一段階自由に、身軽になっていく感じがしました。

 無料で食べられるとはいえ、お店で売っている野菜と比べると、野草はかなりの下準備が必要だし、調理も大変です。そもそも人間用に栽培されてるわけじゃないんで、労力のわりに食べられる部分や時期はほんのちょっとだけ。いざ採ってきても、下処理だけで半日かかったりするんです。

 すぐに食べられるものを買うというのは、栽培、選別、運送、調理と、食べられる状態になるまでのすべての過程を、お金を払って他人にやってもらっているということなんですよね。

自分に対する「信頼度」が増していく

 たくあんだって、たくあんのまま畑に生えてるわけじゃない。そんなこと頭ではわかっていたけど、自分でやってみると想像以上に大変で、じゃあ自分が他人からお金をもらってそれをやりたいかと言ったら、正直いってやりたくない(笑)。

 だから野草を摘むようになってからの私は、どんな粗食でも、もう食べられるっていうだけでありがたい。毎日最低3回はありがたくなるんです。

・眠っていた五感が刺激される、自分への信頼感が増す
 上記の延長ですが、野草を摘むというのは、「これは食べられるか、食べられないか」を、自分で判断していくということでもあります。

 そのためには、実際に足を運んで、現場の状況をよく見て、野草を発見したら手でさわって、においをかいで、ちょっと口に入れたりもしてみる。食べられる野草と見た目がそっくりな毒草もあるので、注意が必要です。

大原さんの「野草生活」の様子を描いたイラスト(大原扁理さん制作)



 毒にあたって死にたくないので、都市生活で眠っていた五感をフル稼働。これがけっこう楽しいんですよね。そして、やればやるほど、「できるじゃん」という、自分への信頼感が増していく感じがあります。

ああ、野草って生きているんだな

 野草を摘んでいると、彼らは独自の方法でコミュニケーションをとっているかもしれない、と思うことがあります。

 野草のみなさんってたいてい群生してるんですが、私が彼らを見つけて近寄っていくと、なんとなく「ザワザワ」っとするんです。気のせいかもしれませんが、まるで「人間が私たちを摘みに来た」っていうのが、一瞬ではるか向こうまで伝わってるみたい。

 ああ、草って生きてるんだな、と思うと、必要以上に採取しようという気持ちも起こらない。ただ自分が必要な分だけ、ありがたくいただく、という感じです。

 そんな私の猟場も、現在の住居がある台湾に引っ越す前の春、ショベルカーでひっくり返されて、盛大に整備がはじまりました。あれ以来、行ってないんですが、今はどうなってるんでしょうか。

 毎年今ごろになると、多摩川土手の、あの野草たちのことを思い出します。

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