パソコン普及の起爆剤に 1995年の革命「ウィンドウズ95」の思い出

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パソコン普及の起爆剤に 1995年の革命「ウィンドウズ95」の思い出

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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1995年に社会現象となったパソコンの基本ソフト「ウィンドウズ95」。その当時の熱気について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

「ウィンドウズ95」が発売されてもう25年

「ドス(DOS)が走るって、どこを走っているんだ……」

 そんな会話が交わされていたのは、もう25年も前のことです。

 先日「ウィンドウズ7」のサポートが終了し、まだアップデートをしていない人たちが大わらわになりました。ウィンドウズ7が発売されたのは2009(平成21)年。ついこの間と思っていましたが、時間が流れるのは早いものです。

 ウィンドウズはいわずとしれた、パソコンの「OS」です。しかし、パソコンが一般に普及するきっかけとなった「ウィンドウズ95」が1995(平成7)年に発売された頃は、まだ「OS」という言葉がまったく普及していませんでした。当時は「基本ソフト」という表記が新聞記事などで使われていました。

マイクロソフト社のウィンドウズ95日本語版発売で混雑する「ラオックスコンピューター館」(東京・秋葉原)。1995年11月23日撮影(画像:時事)



 ウィンドウズが世界標準となる流れは、ウィンドウズ95の前身である1990年発売の「ウィンドウズ3.0」と、その後継「ウィンドウズ3.1」によって既に達成されていました。しかしこれをよしとせず、抵抗を試みるパソコンメーカーもありました。

 1995年初頭、すでにウィンドウズ95の発売がアナウンスされている中で、IBMはウィンドウズ95よりも早い3月に「OS/2ワープ」を発表。

 ウィンドウズは既に「世界標準」ともいえるシェアとなっていましたが、まだ評価が高まっていない混乱した時期で、NECと東芝はウィンドウズとワープの両方に対応する機種を発表。富士通やコンパック(現ヒューレット・パッカード)はウィンドウズ対応のみに絞るなど混乱が見られました。

「遊び道具としては高すぎる」という誤解

 IBMは、自社の一般向けパソコン・Aptivaシリーズにワープをバンドル(別の商品を組み合わせて、一式にして販売すること)。さらに当時大人気だった山口智子の出演するテレビCMで「DOSも走る、ウィンドウズも走る。OS/2なら一緒に走る」という言葉を繰り返しました。

ipconfigコマンド(画像:写真AC)



 既にパソコンに通じている人たちはどちらを選ぶか、ウィンドウズ95が発売されるまで待ちの姿勢。ワープロ程度しか触ったことのない大多数の人は、「走る」の概念を理解できなかったのです。

 そう、多くの人はまだパソコンを触ったことなどありませんでした。電源をオンにすれば、文字を打つことができる理解しやすいワープロに対して、パソコンはハードルの高いものでした。

「なんで、本体を買った後に『ソフト』を買わなきゃならないのか」
「遊び道具としては高すぎる」

そんな会話も当たり前でした。

 また、パソコンを「家庭用テレビゲーム機の延長にあるもの」と思っている人は、「使うには専門的な勉強が必要だ」と恐れていたのです。

ダイエー「フォース75CDX」もブームの呼び水に

 そんな中、ウィンドウズ95の発売に向けて熱が高まり始めたのは、1995年8月24日の英語版の発売からです。

 日本語版の発売は11月と告知されていましたが、それにせんだって夏の時点で各パソコンメーカーではウィンドウズ95の「事前搭載」を、アナウンス。バンドルという言葉はまだ普及していませんでした。

「全世界の」「8割以上が」という報道は、それまでパソコンに触ったこともなかった人に「なんだかよくわからないが、スゴいもの」という印象を植えつけました。

 各パソコンメーカーは、値段を抑えつつ高機能な製品を次々と発表。ダイエーではパッカードベルと提携し、当時では破格の18万8000円で「フォース75CDX」を発売。ペンティアムを搭載しハードディスク容量1GB、四倍速CR-ROMという高性能にかかわらず、20万円以下。これもまた呼び水となり、パソコンに興味を持つ人が増えました。

パソコンへの怒りをぶつけた朝日新聞

 発売を控えたウィンドウズ95日本語版が、秋葉原にやってきたのは9月1日のことでした。

 ラオックス ザ・コンピュータ館(2007年閉店)の6階で開かれたイベントで用意されたのはウィンドウズ95がインストールされたパソコン26台(すべてデル製)でした。1日は平日金曜日。一日中快晴で最高気温34.2度の暑い日でしたが1600人あまりのユーザーが行列をしたのです。

中央区築地にある朝日新聞本社の外観(画像:写真)



 もちろん、発売に向けてのフィーバーには批判もありました。『朝日新聞』では8月28日の「天声人語」で、ウィンドウズ95を取り上げています。これはウィンドウズ95どころか、パソコンそのものへの怒りをぶつけた内容です。

「DOSは物理的または論理的なディスク・ドライブを両方サポートするために」などと書かれた説明書に「日本語の文章表現をもっときちんと勉強してもらいたい」と怒り、「解説書を結構な値段で売っていたりする。それがまた、わかりにくいときている。どういう神経なのであるか」とさらに怒ります。

 揚げ句の果てには、縦書き機能が貧弱なことを「ソフト製作会社の怠慢としか思えない」とし、ウィンドウズ95の発売でパソコンが普及するとしても、「コンピューターのつごうに合わせて日本語を壊すようなことがあってはなるまい」と。かつては、このような人もたくさんいたのです。

「卒論をワープロで書くなんて」という時代

 筆者は1998(平成10)年に大学を卒業していますが、当時は「卒論をワープロで書くなんてあり得ない!」と手書きのみでした。パソコンを使うためには勉強が必要なことを、「なんで、オモチャのために」なんて意見もザラ。

 そう、マウスに対して「なんで、両手でキーボードを打つのにマウスなんて……腕が3本必要じゃないか!」という人も。

 そんな批判が出たのは悲しいことではなく、「パソコンを何だかわかっていない人も意識せざるを得ない」という段階まで普及しているということでした。

11月23日、ついに日本語版が発売

 こうして迎えた、11月23日の日本語版発売日。

 販売店は、午前0時から終夜営業で販売をスタートさせました。秋葉原では列をなす客とともにカウントダウンが行われ、くす玉どころか花火まで打ち上がりました。

現在の秋葉原の様子(画像:写真AC)



 用意されたソフトの山は次々と減っていき、街は完全にお祭りムード。秋葉原には特設会場が設けられ、ミュージシャンの坂本龍一さんやロサンゼルス・ドジャースのラソーダ監督(当時)のトークショーが開催されました。

 事実かどうかはわかりませんが、その熱気ゆえ、パソコンを持っていないのにも関わらず「取りあえずウィンドウズ95を買った」という人がいたと言われています。このような光景が、大阪や名古屋、福岡など全国で繰り返されました。

加熱した12月のボーナス商戦

 もちろん山のように売れれば、その分トラブルも多発します。特にトラブル多かったのは、ウィンドウズ3.1が組み込まれたパソコンをウィンドウズ95と一緒に買ったユーザーです。

 ウィンドウズ3.1とウィンドウズ95は、動作環境が明らかに違います(3.1はメモリ5.6MB以上。95は8MB以上など)。これもいまでは常識ですが、ソフトが動くための「動作環境」もまだ知られていなかったのです。

 ウィンドウズ95の発売を受けて、12月のボーナス商戦は加熱。当時国内シェア50%を超えていたNECに対して、各社は攻勢を仕掛けました。価格面では各社とも20万円台が主流。ならばと、ワープロや表計算ソフト、そしてゲームまでも付けることで差を付けようとしたのです。

 一方、マイクロソフトに対抗しているアップルでもボーナス商戦にあわせて、最新の「パフォーマ5220」を最大2万円値引きする攻勢に出ました。

パソコンの進化の裏にあった大勢の人たちの努力

 それでも、コンピューターが社会にとってまだ欠かせないものとなるには時間が掛かりました。

 12月23日の『産経新聞』東京朝刊には「ウィンドウズ95 踊らされた初心者」というタイトルの記者コラムが掲載されています。執筆者の谷口正晃さん(現在は上席執行役員)は、コンピューターを批判するのではなく、活用できる環境が整備されていないことを指摘しています。

 ソフトや周辺機器との互換性(相性が悪くて動かないのも、かつてはよくありました)、そしてネットワークとの接続の問題です。

「“インフラ”の問題もある。パソコンが持つ多彩な機能を生かすサービスが未整備なのだ。銀行振り込みもできなければ、住民票を取ることも確定申告もできない。バスの時刻表すら分からない。買ってはみたが使い道が少ないというわけだ。95の登場で市場は拡大したが、パソコンが情報家電として実生活に役立つレベルになるにはまだまだ時間がかかる。それが95騒動を取材した実感である」

 1995年、パソコンをインターネットにつなげることを思いつく人はほとんどおらず、夢物語のように語られていました。

日々の生活に定着したパソコン(画像:写真AC)



 それから、25年。上記で「できない」と指摘されていることが、すべてできるようになっています。そこにはパソコンがより役立つものになっていくために、大勢の人たちの努力が確かにあったのです。

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