1980年代の女性たちはなぜ強く、たくましかったのか?

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1980年代の女性たちはなぜ強く、たくましかったのか?

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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ルポライターの昼間たかしさんが、1986年の男女雇用機会均等法施行前後の女性の置かれた環境ついて解説します。いったいどのように変わったのでしょうか。

「お茶くみ」という言葉が当たり前だった過去

 インターネット上では近年、「フェミニスト」を名乗る人たちの発言が話題になったり、女性の権利に関する議論が盛んになったりしています。またそのほかの人権に関しても、時代とともに問題は解決されているように見えます。その点、世の中は確実に進歩していると言えるしょう。

 さて日本の現代史に目を通すと、女性が「時代の主役」になっていく変化をいくつも見ることができます。そうした中でも、1986(昭和61)年の「男女雇用機会均等法」の施行は大きな時代の転換点でした。

強い女性のイメージ(画像:写真AC)



 昔は会社の来客時に、「今、女の子にお茶を入れさせていますので……」なんていうのはザラでした。結婚したら寿退社が当たり前で、「お茶くみ」なんて言葉も当たり前だったのです。

「課長 島耕作」からわかる80年代初頭の日本社会

 そうした時代の歴史記録になっているのは、漫画家・弘兼憲史さんの代表作「課長 島耕作」の初期でしょう。この作品が始まったのは1983(昭和58)年のこと。今では「相談役 島耕作」となり、スーパーサラリーマン物語ですが、初期はもっと日常系の作品でした。

「課長 島耕作」第1巻(画像:講談社)

 そこで描かれる会社の風景は、今では考えられません。女子社員は、朝早く出社してオフィスを掃除。お茶くみや灰皿の用意も当然の仕事。唯一良い点は、ほぼ全員が正社員として雇用されているあたりでしょうか。

 マンガ表現として誇張されていることは否定できませんが、1980年代初頭の社会における、働く女性のほぼ偽らざる姿を描いているといってよいでしょう。

好景気が後押した女性の社会進出

 そのような時代に終止符を打ったのが、1986年の男女雇用機会均等法でした。

 6年前の1980年に女性向けの就職情報誌「とらばーゆ」が創刊され、女性の社会進出は進んでいたのですが、それでも選べる仕事の幅はとても狭かったのです。

 長く働く職業といえば教員や看護師くらい。女性は高校卒業後、四年制大学よりも短大に進学したほうが、就職にも伴侶との出会いにもなにかと便利というのは常識でした。縁談のときに、「四大卒の女性なんて理屈が多くて……」なんて価値観がリアルに存在していたのです。

縁談にのぞむ女性のイメージ(画像:写真AC)



 そこに投じられた男女雇用機会均等法は、社会の常識を大きく変えていきました。とりわけインパクトが強かったのは採用の際に性別で制限をかけることの禁止です。

 それまでは多くの企業が、「男性だけ」「女性だけ」という募集を当たり前に行っていました。筆者(昼間たかし。ルポライター)の大先輩に、70代でまだ意気盛んな女性ライターがいますが、マスコミ稼業の最初は「産経新聞」の記者だったそうです。

 以前どうして産経新聞を選んだのか尋ねたところ、「大学を出た当時、女性を募集していたのが産経新聞だけだった」とのこと。これは、1970(昭和45)年頃の話ですが、人権や平等に敏感な新聞業界でもそのような状況だったのです。

 さて男女雇用機会均等法による女性の社会進出を支えたのは、直後にやってきたバブルの好景気でした。好景気は人々に「可能性」という希望を持たせ、女性の社会進出を後押ししていったのです。

「できる女」は年収600万円以上?

 女性情報誌「Hanako」1988(昭和63)年9月8日号には、「今、50万円の月収があったら、女ひとり理想的な生活ができる」と題した特集が組まれています。

 この記事では、「2年ほど前に」アメリカで年収3万ドルが有能と評価される金額だったことを根拠に、東京において「できる女」は年収600万円以上であると主張しています。そして、「日本の企業の中で、今WW(ワーキングウーマン)の職場での実力をはかるひとつの目安が600万円という年収になりつつあります」というのです。

 さらに、この記事では実際に年収600万円は「平均的な企業の例でいえば、課長職以上のようです」と記しています。

 現代ならば「そんなバカな」と怒られそうですが、当時はこれが現実でした。というのも、この記事では、45歳にして年収1000万円以上を稼いでいる女性を取材しています。

外資系企業のイメージ(画像:写真AC)



 その役職は、世界三大広告グループのひとつに数えられる外資系企業の日本法人副社長。今は社名が多少変わっていますが、そのような会社の幹部ならば、年収1000万円クラスは当然でしょう。ゆえに、とても参考にならぬ……と考えるのは早急です。

 記事ではこの女性に続き、証券会社や小売りなど多様な企業で年収500万円クラス以上の女性を紹介しています。しかし記事の背景には、読者の側が「自分たちもそうなれるのではないか」という希望があったことが見て取れるのです。

 みんなが大もうけして、お金を湯水のように使ったと思われているバブルの時代ですが、決して正しくはないのです。

好景気が社会の常識を変える

 国税庁の統計によれば、給与所得者の年間平均給与額は、2015年で361万2000円となっています。

 この統計は1950(昭和25)年から毎年行われていますが、400万円台を突破したのは1992(平成4)年のことです。この金額と比べてバブルまっさかりの年間平均給与額は、

1987年:335万9000円
1988年:343万0900円
1989年:359万6000円

と、決して高くありません。それなのに「できる女は年収600万円」なんて、ファンタジーでしかありません。

 このようなことからも、世の中にお金が回っていれば「常識はプラスの方向へと変化していく」ということがわかります。

バブル景気のイメージ(画像:写真AC)



 男女雇用機会均等法は好景気と結びついて、女性たちに努力次第で男性たちと同等、あるいはそれ以上を稼ぐことができることを、夢見させていたのでしょう。
 
「夢見させていた」と記したように、世の中はバブルで天地がひっくり返ったかのごとく激変したわけではありませんでした。社会の変化を察知して上昇する女性がいる一方、そうなれない女性たちの悲哀もあったのです。

 週刊誌「サンデー毎日」1988年4月10日号の記事「女たちはこれだけ貰っている!!」には、さまざまな一流企業の賃金が記されています。

 民営化まもないNTTは、23万1126円。TBSは32万4515円で、女性でも高給を得られる企業がある一方、NECは15万4981円、東京電力は17万8352円、ソニーは17万8267円となっています。

好景気による浮かれっぷりも大事

 男女雇用機会均等法の施行によって、性別の違いによる差別は法的に禁止されましたが、それまで「お茶くみ」や「腰掛け」の労働力に依存していた企業の仕組みは、すぐには変わりませんでした。

 性別に変わる「一般職」「総合職」という言葉を用いることで、新たな男女差も生まれていたのです。

 それでも、時代は確かに変化を遂げました。

ビジネスウーマンのイメージ(画像:写真AC)



 雑誌が情報源だったこの時代、1986年3月に「Peach」(角川書店)と「ウブリエール」(CBSソニー出版)、4月には「日経WOMAN」など新たな時代の女性に即した雑誌が次々と誕生しています。

 Peachは「遊び心を大切にするアクティブ派女性」の生活情報誌をうたい、「ウブリエール」は「快適に働くビジネスウーマンのための知的情報誌」を秋元康がプロデュースを担当。「日経WOMAN」は、ズバリ「働く女の情報誌」を掲げてキャリア志向の女性をターゲットにしていました。

 このようなことからもわかるとおり、女性は消費の主体となることで、次第に社会的地位を獲得していきました。

 いずれにしても社会が変化するためには、好景気による浮かれっぷりのように、単に「理屈」ではないものが原動力になるのです。

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