きっかけはCIAとN響だった? 今ではおなじみ「和風スパゲティ」の誕生秘話【連載】アタマで食べる東京フード(1)

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きっかけはCIAとN響だった? 今ではおなじみ「和風スパゲティ」の誕生秘話【連載】アタマで食べる東京フード(1)

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畑中三応子

食文化研究家・料理編集者

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味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。

「和風スパゲティ」を初めて出した店とは

 渋谷に「100年に1度」といわれる再開発が続いています。いまから100年前の日本は、大正時代でした。武蔵野の緑が広がっていた渋谷の開発が始まったのはその頃なので、100年に1度というのは大げさではありません。渋谷ができて以来、大きく姿を変えようとしています。

 劇的に都市化が進み、飲食店が急増したのは1923年(大正12)の関東大震災がきっかけ。それからの渋谷は、しゃれた飲食店が集まる街になりました。特筆したいのは、「日本初」の食べ物屋が非常に多いことです。

 私はファッションのように消費される流行の食べ物を「ファッションフード」と呼び、その変遷を研究していますが、渋谷は実に多くのファッションフードを発信してきました。

和風スパゲティの「たらこといろいろきのこ」。木のボウルに盛り、のりをふわりとのせ、好みでレモンを搾りかけるという粋なスタイルは昔のまま(画像:畑中三応子)



 そのひとつが、「和風スパゲティ」です。食べ物の起源を探るのは厄介な作業で、日本初の店や創案者はなかなか特定しづらいものですが、和風スパゲティに関しては、はっきり分かっています。

「壁の穴」の歴史

 元祖の店は「壁の穴」。現在は全国で何店舗も展開する外食グループですが、本店(現在は渋谷区道玄坂)は今も渋谷です。

 異色な店名には、意外な由来があります。創業者の成松孝安は英語が堪能で、終戦後の占領期にアメリカの情報機関・中央情報局(CIA)初代東京支局長として赴任していたポール・ブルームと運命的に出会い、私邸の執事を5年間つとめました。

 渋谷・神山町にあったブルーム邸は、戦後日本を代表する学者・政治家・実業家が集まり、情報交換をする夕食会が毎月行われたことで知られています。

 1953(昭和28)年に執事を辞め、退職金の代わりにブルームの資金援助で開いたのが、日本初のスパゲティ専門店「hole in the Wall」でした。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』からブルームが命名し、その日本語訳が「壁の穴」というわけです。

N響団員のリクエストがきっかけ

 最初の店があったのは田村町(現在の西新橋)で、その当時からゆでたてのアルデンテで出していましたが、味つけはアメリカ式のトマトソースでした。スパゲティを食べられる店は少なく、ましてや専門店は唯一だったので、東京中の外国人が集まったそうです。

 和風スパゲティが生まれるきっかけは、1963(昭和38)年に渋谷に場所を移し、リニューアルオープンしたこと。今の東急ハンズの坂の向かい、カウンター15席だけの小さな店でした。

東急ハンズの向かいの坂上、ライブハウスのある場所に最初の「壁の穴」があった(画像:畑中三応子)



 外国人客一色だった頃とは違い、場所柄、近くのNHK関係者や芸能人、NHK交響楽団(N響)員などが集まり、成松は彼らのリクエストや好物に合わせて、さまざまなスパゲティの新メニューを開発するようになったのです。

 あるとき、N響の首席ホルン奏者が持参したヨーロッパみやげのキャビアで作ってみたところ、驚きのおいしさでした。キャビアは高価すぎるため、かわりになる材料をいろいろ試し、たどり着いたのが、同じ魚卵のたらこ。日本ではスパゲティよりマカロニの普及のほうが早く、スパゲティはやっと知られ始めたばかり。そんな時期に編み出した才には、脱帽します。

隠し味に昆布の粉を使用

 たらこが突破口になり、「ご飯に合う材料はスパゲティにも合う」という確信を持って、納豆、しょうゆとしょうがで煮たアサリ、シイタケ、ウニ等々、次々と和風スパゲティの独創的メニューを開発していきました。のり、青じそ(大葉)をトッピングしたのも、最初です。

現在の「壁の穴」渋谷本店は道玄坂小路にある。隣は1955年創業の台湾料理店「麗郷」(画像:畑中三応子)

 なによりすごいと思うのは、昆布の粉を隠し味に入れて、スパゲティと和風の具との調和を高めたことです。今でこそ、昆布だしを愛用するフレンチのシェフは珍しくありませんが、60年前に昆布のうま味を材料と材料のつなぎ役として活用するのは、とんでもなく画期的なことでした。

老舗はいまだ「和風スパゲティ専門」を名乗らず

 想像ですが、成松が最初に出会ったのは、トマト味オンリーで単調なアメリカ式スパゲティだったから、発想の転換がしやすかったのではないでしょうか。もし、本場イタリアの多種多様なパスタソースを知っていたら、和風に変える必然性を感じなかったかもしれません。いずれにせよ、成松とブルームの出会いがなかったら、和風スパゲティの誕生はなかったでしょう。

 和風スパゲティはブームになり、店の前にはいつも列ができ、それがまた話題を呼び、いつしか全国に似た店が生まれました。現在、和風スパゲティの大手チェーン「洋麺屋五右衛門」は、1976(昭和51)年に公園通りで創業。五右衛門風呂のような大きな釜でイタリアからの直送麺をゆで上げ、澄まし汁とおしんこをつけて、箸で食べさせることが話題になりました。

はじめから「和」を打ち出した「洋麺屋五右衛門」は、元祖和風スパゲティをうたっている(画像:畑中三応子)



 成松は200種類もの新メニューを開発し、そのなかにはサラダスパゲティなどの洋風メニューも多数ありました。現在も壁の穴は、和風スパゲティ専門を名乗っているわけではありません。しかし、クリーム系や肉系のソースに納豆をトッピングするなど、自分で和洋折衷のカスタマイズができるのが、他店にはない魅力です。

 和風スパゲティが家庭にも広く定着してもう長く、スパゲティメニュー自体、今ではなんでもありの時代。その源流がひとりの人間の創意工夫にあり、戦後の占領政策と関わっていたのです。

 食べ物の初めて物語には、思いも寄らない事実や関連性を発見することがよくあります。深く知るほど、興味は尽きません。

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