ゴーン被告逃亡で想起? 61年前の杉並区「スチュワーデス事件」とは

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ゴーン被告逃亡で想起? 61年前の杉並区「スチュワーデス事件」とは

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合田一道

ノンフィクション作家

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2020年の年明けから世間を騒がせている、日産自動車前会長カルロス・ゴーン被告のレバノンへの「脱出劇」。今回の事案を受けて、ノンフィクション作家の合田一道さんは、かつて東京で発生したひとつの事件を想起したと語ります。

「ゴーン劇場」に踊らされられる日本の司法とメディア

 金融商品取引法違反の罪などで起訴され、保釈中だった日産白動車前会長カルロス・ゴーン被告が、日本を脱出して中東レバノンに逃亡し、記者会見で身ぶり手ぶりで話すのをテレビで見て、不思議な気持ちにさせられました。

 どうやって逃れることができたのか。だが本人はそこには触れず、自らの潔白を主張したうえで、日本の司法制度を批判し、日産と日本政府による「陰謀」と決めつけたのです。キモをつぶすほど驚いたのは、記者団からゴーン被告に拍手が送られたとき。

 記者会見で拍手が起きるなど、日本では特別な場合を除いてまずないでしょう。記者とは会見した相手の話を文章化し、必要に応じてその背景を解説するのが仕事です。もとより不偏不党の立場でなければならないのです。

 そう思いながら記者会見までが「ゴーン劇場」という仕組まれたもの、と思えてなりませんでした。

日産の元会長カルロス・ゴーン氏の記者会見の様子(画像:AFP=時事)



 日本政府の要請を受けた国際刑事警察機構(ICPO)は、被告の身柄拘束を求める国際逮捕手配書をレバノン当局に送付しましたが、レバノン検察当局はゴーン被告から事情を聴取したうえで、被告の国外渡航禁止を命じたのです。こうなったら日本の司法は手も足も出なくなります。

 森雅子法相はゴーン被告の国外逃亡を厳しく批判し、「潔白だというのなら、日本で裁判を受け、正々堂々無罪を主張すべき」と述べました。だがゴーン被告は「すべての罪状は根拠がない」の一点張りです。

 不思議なことにレバノンの新聞は「被告が長く待ち望んだスピーチを行った」と報じ、フランスの新聞は「現代の岩窟(がんくつ)王だ」として「正式な裁判で最終的には名誉を回復するだろう」と報じました。

 こうなったら「逃げ得」とも思える事件がよみがえります。1959(昭和34)年3月10日に杉並区の善福寺川で発生した、「スチュワーデス殺人事件」です。

重要参考人となった、あるベルギー人の神父

 被害者はイギリス海外航空(略称BOAC)に勤める27歳の日本人女性で、渋谷区に下宿していました。

 といっても同社の採用試験に合格し、1959(昭和34)年1月からロンドンでの講習に出掛け、同年2月27日に帰国して、初搭乗を控えていたのです。

 当初は自殺か他殺か判断できずにいたのですが、事件発生から2日後に死因は絞殺(こうさつ)と断定。捜査の結果、都内の宗教出版社に勤務するベルギー人神父(38歳)が線上に浮かび上がったのです。

 神父は被害者の女性と親しい関係にあり、事件当日のアリバイがはっきりしなかったのです。

 捜査本部は事件から2か月近くたった同年5月5日、勤務先の出版社を通じて神父に重要参考人として出頭するよう求めました。

 神父は同月11日になってようやく出頭し、事情聴取に応じました。事情聴取は翌日、翌々日、さらに20、21日と計5回にわたって続きましたが、神父は「私は神に仕える身です」と繰り返すだけで、核心に迫ることはできませんでした。

 この間に神父自身が「非難を恨まず」とする英文の感想文を毎日新聞社に寄せ、ローマ法王の使節がカトリック系新聞を通じて、神父の潔白を声明するなど波紋を呼びました。

神父の感想文を掲載した1959年の毎日新聞(画像:合田一道)



 捜査本部は6回目の事情聴取をするとして、6月13日に任意出頭を求めましたが、神父は「体調が悪い」と言い、11日夜、羽田発のフランス機で祖国ベルギーへ向け飛び立ったのです。まさに脱出でした。

 ところが偶然、神父の乗った飛行機に読売新聞のロンドン特派員として赴任する記者が同乗していたのです。記者は30時間に及ぶ長い機中で神父と一問一答をし、その記事が 13日夕刊に掲載されたのです。このなかで神父はこう述べました。

「帰国は私の意思というより、所属しているサレジオ会の命令です。私の体のこともあるが、老衰した両親の見舞いを兼ねたものです。(日本の警察から)要請があったら、いつ、どこにいても受けるつもりです」

「逃げ得」に対して抱く危機感

 この神父の突然の帰国は、衆議院法務委員会でも取り上げられ、野党は入国管理局との連絡の不備や外国人犯罪の取り締まりについて追及しました。

 だが、捜査はそれ以降まったく進展を見せず、うやむやのうちに中断となったのです。事件はその後、解決のめどが立たないまま1974(昭和49)年3月10日に公訴時効を迎えました。

※ ※ ※

 話を戻して、変装して現れたり、荷物に入って関門をすり抜けたり、忍者もどきの脱走劇を見せたゴーン被告は、今後どうなるのでしょう。「逃げ得」が許されるなら、日本の司法は崩れてしまう――。そんな危機感を抱いたのは筆者だけではないと思うのです。

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