手塚治虫とトキワ荘が残した、知る人ぞ知る「もうひとつの遺産」

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手塚治虫とトキワ荘が残した、知る人ぞ知る「もうひとつの遺産」

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中川右介

編集者、作家

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かつて豊島区椎名町(現・南長崎)にあり、名だたる漫画家たちを輩出したアパート「トキワ荘」。豊島区が文化発信拠点「トキワ荘マンガミュージアム」を2020年3月にオープンさせるなど、再び注目を集めています。トキワ荘の住人だった手塚治虫らが残した功績とは、何もその作品の数々にとどまらない――編集者の中川右介さんが、そのレガシーに迫ります。

手塚・藤子・赤塚・石ノ森が暮らした、伝説のアパート

 かつて東京・豊島区に「トキワ荘」というアパートがありました。

 手塚治虫、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、赤塚不二夫、石ノ森章太郎といった、今ではレジェンドとされるマンガ家たちが、若い頃に暮らしていた4畳半ひと間のアパートです。

1981年ごろのトキワ荘の外観(画像:向さすけ)



 老朽化して1982(昭和57)年に解体されてしまい、そのときもマンガファンたちは「惜しむ声」をあげましたが、当時の行政はマンガの価値を理解していなかったので、あっさりと解体されました。

 それから40年近くが過ぎて、マンガは日本文化の代表となりました。海外へ輸出されるコンテンツとしてもてはやされたため、豊島区がマンガのミュージアムとしてトキワ荘を再建し、2020年3月にオープンする予定です。

 最初にトキワ荘に暮らしたマンガ家は手塚治虫でした。入居したのは1953(昭和28)年1月のことで、当時24歳。デビュー8年目で『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』という、生涯を通しての代表作を含む9作を月刊誌に連載していた時期にあたります。

 手塚治虫がトキワ荘で暮らしたのは2年弱で、1954年秋に雑司ヶ谷へ引っ越します。

 その手塚治虫がいた部屋に、藤子・Fと藤子A(当時は、ふたりでひとつのペンネーム「藤子不二雄」を名乗り、コンビを組んでいました)が入居し、1956(昭和31)年に石ノ森と赤塚が入居したことで、トキワ荘は本格的な「マンガ・アパート」となりました。皆、すでにデビューしていましたが、まだヒット作はない、駆け出しのマンガ家でした。

 1961年秋に、藤子不二雄のふたりと赤塚がトキワ荘を出て、翌年初めに石ノ森も出て行くので、4人がそろっていたのは6年弱でした。

 トキワ荘には、彼ら以外にもマンガ家が暮らしていました。

 寺田ヒロオ、鈴木伸一、よこたとくお、森安なおや、水野英子といった人たちです。鈴木はアニメーションの世界へ行き、森安だけはメジャーな雑誌には描きませんでしたが、こんなに成功率が高いグループは、ほかにないでしょう。無名のまま消えていった人がいないのです。

小説ばかりの少年誌にマンガのページを開拓

 手塚治虫が月刊誌に連載を始めた頃、少年誌・少女誌とも、小説や絵物語が全盛で、マンガのページはほとんどありませんでした。

 手塚は、雑誌のなかにマンガのページを獲得することから始めなければならなかったのです。手塚の功績は「ストーリーマンガの確立」「映画的手法の道入」などが語られますが、その前に、雑誌のなかでの「マンガ」のテリトリーを拡大したことが大きいのです。

 例えば今はほとんどのページがマンガで埋められている「週刊少年サンデー」も「週刊少年マガジン」も、1959(昭和34)年の創刊時はマンガのページは全体の3割から4割で、あとは読み物でした。

「少年」や「少女クラブ」での手塚治虫のマンガの人気が出ると、各雑誌が依頼し、手塚は10本近い連載を抱えるようになります。

 依頼された仕事をすべて引き受けるので、オーバーワークとなった手塚は、最初は手先の器用な編集者にベタ塗りを手伝ってもらうなど、他人の手を借りるようになります。

 そんなときに上京してきたのたが藤子不二雄のひとり、安孫子素雄(藤子不二雄A)でした。我孫子は手塚が忙しそうにしているので、手伝いましょうと申し出て、彼が言うには「手塚先生のアシスタント第1号」となったのです。

 それまで手伝ってもらうとしても、ベタを塗ってもらう程度でしたが、我孫子はすでにマンガ家としてデビューしていたので、手塚は信頼して背景なども描いてもらいました。

 このとき手塚は人物は自分で描かなければダメだが、それ以外は絵のうまい人に描いてもらってもいい、という方法を思いついたに違いありません。

1981年ごろのトキワ荘の2階廊下(画像:向さすけ)



 その後も、高校生だった石ノ森章太郎に手伝ってもらったり、九州へ行ったときは松本零士に手伝ってもらったりしたこともあります。

 やがて、手塚は臨時雇いで手伝ってもらうのではなく、専属のアシスタントを雇うようになり、マンガ家のプロダクションが生まれたわけです。

「マンガの分業」としては、もうひとつ「原作」があります。

 絵はうまいけどストーリーを作るのが苦手な人もいるので、プロの小説家やシナリオライターにマンガのための原作を書いてもらうことから始まりました。新人が初めて連載するときなどは、原作を別の人に書いてもらうケースが多かったのです。

 しかし手塚治虫は原作付きには否定的で、ストーリーもセリフもキャラクターもマンガ家が全部考え、作画にあたっても人物は本人が描き、背景や自動車や飛行機などは、アシスタントに任せるという方法を確立したのです。

マンガ制作の近代化・量産化・産業化を確立

 手塚治虫以前の田河水泡などのマンガ家には「弟子」はいましたが、アシスタントはいませんでした。弟子たちは「先生」の仕事を手伝うわけではなく、身のまわりの世話や家事までしなければならず、それに耐えると雑誌の仕事を紹介してもらうという、徒弟制度でした。

 手塚治虫はマンガそのものを変革しただけでなく、マンガ界の徒弟制度を壊し、アシスタント制という近代化も、実現したのです。

 それだけなら手塚治虫という多忙なマンガ家だけの特異例として終わりましたが、トキワ荘で暮らしていた、藤子不二雄のふたり、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らは、手塚のまねをして、自分の仕事が終わると、別のマンガ家のアシスタントをするようになり、互いに手伝い合うようになります。

 もともと藤子不二雄のふたりは、高校時代から合作していたので分業に慣れていました。同じアパートに石ノ森や赤塚も暮らしたことで、忙しいときは互いに手伝うという「文化」が生まれ、彼らは「すべての絵を自分で描く」こだわりがなくなりました。

 人気が出て仕事が増えてくると、彼らも手塚のようにアシスタントを雇うようになります。こうしてマンガ界にアシスタント制、プロダクション化が発展していきます。

1981年ごろのトキワ荘の2階炊事場(画像:向さすけ)



 マンガのアシスタント制度、プロダクション化も手塚の考案ですが、これが当たり前のものとなるのは、トキワ荘グループがそのまねをして成功したからです。この方法によってマンガの量産が可能になったのです。

 手塚治虫とトキワ荘グループは、マンガの文化面での功績も絶大ですが、マンガの産業化でも重要な役割を果たしました。その歴史の始まりが、トキワ荘だったのです。

※参考文献:中川右介『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)

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