軍事バランスだけが本当に必要なのか? 夢の島「第五福竜丸展示館」から聞こえる平和へのメッセージを聞け

1954年3月に発生した第五福竜丸の被爆事故。その記憶を手繰り寄せるべく、都市探検家の黒沢永紀さんが江東区の「第五福竜丸展示館」を訪ねました。


日本国内で3000万人を超えた反核の署名

 焼津市の病院に収容されて検査を受けた乗組員は、急性放射線症と診断され、すぐに治療が開始されました。その後、第五福竜丸の被爆と乗組員の病状が報道されると、一気に世の中の関心が集中し、乗組員の治療チームも結成され、東大付属病院および国立第一病院へ転院、さらに本格的な治療がほどこされることになります。

 しかし先端医療による治療のかいもなく、半年後に無線長の久保山愛吉氏があえなく亡くなりました。辞世の言葉「原水爆の被害者は私で最後にしてほしい」は、第五福竜丸展示館の中庭に石碑となって残されています。

敷地内にある久保山無線長の辞世の言葉を刻みつけた碑(画像:黒沢永紀)

 第五福竜丸の被爆と乗組員の訃報は、大きな平和運動のきっかけとなりました。各地で原水爆禁止の運動や核廃絶の署名活動が行われ、核兵器禁止の決議をした自治体も出はじめました。

 そして事件の翌年、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル氏と、原爆のきっかけを作ってしまったアルバート・アインシュタイン氏による「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表され、平和運動は国際的な広がりへと発展していきます。

 やがて、国内での反核の署名が3000万人を超え、政党も一丸となった平和運動は国家規模で拡大したかに見えました。しかし、当初は超党派で行われていた反核運動も、やがて参加各党の思惑が反映し始め、政治的イデオロギーの相違から分裂。さらに、政治色を帯び始めた平和運動に嫌気が差した活動家の脱退などを経て、急速に求心力を失っていくことになります。

事件から14年後、再び浴びた注目


【画像】館内に展示された「死の灰」を見る

画像ギャラリー

/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_07-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_01-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_02-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_03-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_04-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_05-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2020/01/200106_fukuryu_06-150x150.jpg

New Article

新着記事

Weekly Ranking

ランキング

  • 知る!
    TOKYO
  • お出かけ
  • ライフ
  • オリジナル
    漫画