住みたい街ランキングの常連「吉祥寺」がかつてサブカルチャーの発信地だったという揺るぎない事実

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住みたい街ランキングの常連「吉祥寺」がかつてサブカルチャーの発信地だったという揺るぎない事実

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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住みたい街として根強い人気を誇る吉祥寺。そんな吉祥寺は1970年代後半、現在とは異なるサブカルチャーの街でした。法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。

サブカルチャーの温床だった1970年代後半

 筆者(増淵敏之。法政大学大学院政策創造研究科教授)は十数年前まで吉祥寺をよく訪れていました。しかし最近は、学生と一緒に焼き鳥店の「いせや」に寄った程度です。

 振り返ると吉祥寺に最も訪れていたのは大学生だった頃、そしてレコード会社に勤めていた頃です。前者が1970年代後半、後者が1990年代後半から2000年代初頭までになるでしょうか。

 そこで、久々に吉祥寺へ足を向けてみました。今思えば、1970年代後半の吉祥寺はサブカルチャーの発信地でした。

「吉祥寺という街には、僕や円山君のような奴が無数に群れている。(中略)勤め人には向かず、自分の才覚で一旗あげようと考えている奴らが吸いよせられ、集ってきているのだ」

 2000(平成12)年に刊行された花村萬月の「吉祥寺幸荘物語」(角川書店)は吉祥寺が舞台の作品で、解釈次第では当時の吉祥寺のガイドブック的な側面を持っています。小説家志望で、24歳の吉岡を中心にした青春物語です。

 それがいつの間にか、雑誌「東京ウォーカー」の「住みたい街ランキング」では上位を占めるようになりました。吉祥寺は大学や商業地区が充実しており、井の頭公園という緑あふれる都市公園もあります。同誌によると、吉祥寺が同ランキングで1位になったのは2005(平成17)年で、その数年前から上位にランクインしていたようです。

吉祥寺の「プチロード」の様子(画像:増淵敏之)



 筆者は1970年代後半、F&Fビル(武蔵野市吉祥寺本町)の横にある細い路地「プチロード」によく行きました。全長50m程度の細街路(幅員が4mに満たない細い道)で、個人的には吉祥寺ではもっとも思い入れの強い路地です。

当時の空気をそのまま残す店も健在

 1966(昭和41)年、実業家・野口伊織が現在のパルコ裏に「ファンキー」を新規開店しました。やがて3階建てに改装。地下1階と地上1階はおしゃべり厳禁のシリアスなジャズ喫茶、2階はジャズボーカルアルバムを専門にかけるサロン的なバーになりました。

 その後、野口は1969(昭和44)年に「be bop」、1972年に「out back」「赤毛とそばかす」、1974年に「西洋乞食」、1975年に「SOMETIME」、1977年に「ハム&エッグス」、1978年に「チャチャハウス」、1980年に「ココナッツグローブ」「レモンドロップ」と、吉祥寺界隈に次々と開店しました。

 ジャズ喫茶でいえば、現在もジャズ評論を行っている寺島靖国が1970(昭和45)年にオープンした近鉄百貨店裏の「メグ」が有名でしたが、同様に彼が経営している「モア」は現在でもプチロードにあります

 インターネット上には、このプチロードに関する青春の思い出が散見されますが、特に多く取り上げられるのは「out back」「赤毛とそばかす」。1970~1980年代はプチロードを中心に、若者たちがこの界隈に集まっていたのです。

現在でも営業を続ける東急百貨店 吉祥寺店の外観(画像:増淵敏之)



 しかし久々に訪れたプチロードはあの頃のサブカルチャー色が薄れ、随分と店も入れ替わりました。「モア」やレストラン「まざあ・ぐうす」はまだありましたが、路地の先にはコンビニができるようで、工事をしていました。とても残念ですが、時代の流れでは致し方ありません。ミドリヤや伊勢丹、近鉄百貨店とあった各百貨店も姿を消し、パルコと東急百貨店だけになってしまいました。

 逆に東急百貨店方面の中道通り、昭和通り、大正通りはセンスの良い店が並んでいます。これは、1990年代後半から2000年代初頭までには垣間見えていた光景です。しかし2004(平成16)年公開の岩井俊二監督『花とアリス』に登場した「news DELI 吉祥寺店」はすでに閉店してしまっているようです。

変化しながら、さまざまなコンテンツを生む街

 吉祥寺は「住みたい街ランキング」の上位となっても、街の各所にまだサブカルチャー色が残っているところもあるようです。しかし新旧店舗の交代で、生活の場やショッピングの場、まち歩きの場としての性格が強まった印象を受けます。

閉鎖された東急百貨店 吉祥寺店の屋上(画像:増淵敏之)



 作家・大崎善生が2002(平成14)年に発表した2作目の小説『アジアンタムブルー』の冒頭には、次のような文章が登場します。

「その場所は、孤独というものが自分の周りを月のように周回していることを確かめるためにあるような空間だった。急に賑やかになったり、突然静まり返ったりを不定期かつ無秩序に繰り返すその広場で、僕はいつからかありあまる時間をやり過ごすことを覚えるようになっていた。空は広く、適度な緑があった」

『アジアンタムブルー』は映画化され、阿部寛と松下奈緒が主演を務めました。文中の「その場所」とは東急百貨店 吉祥寺店の屋上のことです。この屋上は作品のエンディングにも出てきます。2002年当時、屋上には遊戯施設があったことを筆者は覚えていますが、2019年6月に営業終了。現在は改築中のため屋上には出られず、子どもたちの楽園は姿を消してしまいました。

 東京では、百貨店の定番だった遊戯施設がほとんどなくなりました。吉祥寺も新旧が絶えず交代しています。最近も又吉直樹の『火花』(文藝春秋)に、カフェ「武蔵野茶房」や井の頭公園が登場します。吉祥寺は変化しながらも、このようにさまざまなコンテンツ作品が生まれる魅力的な街であり続けているように思うのです。

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