椎名林檎『歌舞伎町の女王』――たけし・タモリから手渡された「アングラ」という名のバトン 新宿区【連載】ベストヒット23区(6)

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椎名林檎『歌舞伎町の女王』――たけし・タモリから手渡された「アングラ」という名のバトン 新宿区【連載】ベストヒット23区(6)

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スージー鈴木

音楽評論家。ラジオDJ、小説家。

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人にはみな、記憶に残る思い出の曲がそれぞれあるというもの。そんな曲の中で、東京23区にまつわるヒット曲を音楽評論家のスージー鈴木さんが紹介します。

林檎の歌詞から落丁した、新宿東口の濃密な一角

 前回の大田区に続いて、今回はいよいよ新宿区。いよいよと書くのは、さすが新宿区、音楽的なネタが無尽蔵に出てきそうな「23区一、音楽のニオイのする区」と言えるからです。

 というわけで、新宿区については複数回に分けて取り上げたいと思います。まず今回は新宿東口編を。

「ベストヒット新宿東口」は内容的にも知名度的にも、椎名林檎『歌舞伎町の女王』(1998年)で決まりでしょう。歌詞にはご丁寧に「JR新宿駅の東口を出たら」というフレーズが出てきます。

極彩色のネオンを放つ、新宿東口の歌舞伎町(画像:写真AC)



 ただ、このフレーズに噛み付いた人がいます。2019年10月に発売された中森明夫の自伝的小説『青い秋』(光文社。名著)に、こう書かれています。

――椎名林檎が歌うように「東口を出たら」、そこは歌舞伎町……なわきゃない。少なくとも、歩いて五分はかかる。

「でも、まあ、わかるよ。歌の世界なんだ。イメージの地図さ」と継ぎ足しているので、中森明夫も本気で怒っているわけではないのですが、確かに「JR新宿駅の東口」と「歌舞伎町」の間 = 東口すぐのエリアから生み出された文化は、非常に濃密であり、無視をすることなどできません。

若者文化の覇権をかつて、新宿が握っていた時代

 1967(昭和42)年、この東口エリアに降り立ったのは、20歳の北野武少年。無論、のちのビートたけしです。

 たけし青年が足を運んだのは、このエリアにあったサブカル、いや当時的に言えば「アングラ」(「アンダーグラウンド」の略)の発信基地のような喫茶店「風月堂」。自著『真説たけし!』(講談社)で、その「風月堂」の当時の印象をこう書いています。

――新宿でも有名な店で、変なのがいたよ。大学中退とか、卒業しても就職しないでブラブラしてるのとか、いわゆるドロップアウトしてる連中が多かった。(中略)オレもこの時点で、サラリーマンになることをあきらめた。

 次にたけしが向かったのは、新宿通りの紀伊國屋書店の手前を左に入ったところにあったジャズ喫茶「びざーる」。ここでたけしはボーイの職に就きます。そこから新宿のジャズ喫茶と職を転々としながら、浅草に流れ着き、芸人として「アングラ」からオーバーグラウンドへ飛び出していきます。

 ちなみに、たけしがまだ新宿でウロウロしていた1969(昭和44)年ごろ、花園神社近く、明治通りに面したゴーゴークラブ(ディスコのようなもの)「パニック」で、ぐんぐんとグルーヴするベースを弾いていたのが、たけしと同じ1947年生まれの細野晴臣です。

 そして80年代に入り、今まさにオーバーグラウンドに詰め寄らんとするたけしが、毎週火曜日の昼間に通ったのが、東口を出てすぐの新宿アルタ。フジテレビ系『笑ってる場合ですよ!』(1980~82年)の火曜日レギュラーに抜擢されたのです。

 火曜日のコーナー名が「勝ち抜きブス合戦」なのだから始末が悪いのですが、それにしても約10年前、ジャズとタバコにむせ返りながら、東口エリアの夜を徘徊していたたけしにとって、女の子のキャーキャーという嬌声を浴びながら見つめる真っ昼間の東口エリアは、どう映ったのでしょう。

80年代にたけしが、その後タモリが出演したテレビ番組のスタジオとなった新宿駅東口の新宿アルタ(画像:写真AC)



『笑ってる場合ですよ!』の後番組として、同じく正午の新宿アルタから生中継されたのが、ご存じ『笑っていいとも!』(1982~2014年)。司会はこれまた東口エリアの奥 = 新宿ゴールデン街あたりの「アングラ」なニオイをまとったタモリでした。

 しかし、たけしとタモリという、新宿の「アングラ」から抜け出した人相の悪い30代の男たちが一気にオーバーグラウンドへと上り詰め、それによって「アングラ」臭を失っていったのと同時に、東口エリアの文化的ニオイも薄まっていきました。そして若者文化の覇権は新宿区から、もっとソフィスティケートされた港区や渋谷区へと手渡されていくのです。

「おしゃれサブカル」に強烈なカウンターを放った「新宿系」の矜持

 80年代後半、音楽界はCDの時代に本格的に突入。CDの時代ということは、過去の名盤レコードがCDとなって、一気に再発売されることを意味します。

 狂喜したのは過去の音楽にマニアックに執着する若い音楽家たちです。彼らによる、サンプリング感覚で過去の音楽のエッセンスを活かした音楽が多数リリースされ、90年代中盤に一大ムーブメントとなります。人々はそれを「渋谷系」と呼びました。

 ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター(および後の彼ら、つまり小沢健二とCornelius)、ORIGINAL LOVE……。作り手はピュアな音楽愛に溢れていたのですが、それを面白がった一部メディアの意図的な編集によって、軽薄な「おしゃれサブカル」ムーブメントのように仕立てられたという読後感も強いのですが(詳しくは本連載の「渋谷区」編で書きたいと思います)。

 1998(平成10)年の椎名林檎『歌舞伎町の女王』は、そのような「渋谷系」全盛の時代に発表されたからこそ、価値が際立ちました。明治通りに沿って、渋谷から押し寄せてきた「おしゃれサブカル」のボールを、花園神社の前あたりで、あさっての方向にポーンと蹴り飛ばした迫力。まさに「ベストヒット新宿東口」にふさわしいといえるでしょう。

若き日の才能たちも眺めたであろう、新宿駅東口のランドスケープ(画像:写真AC)



 ただ、私がこだわりたいのは、「JR新宿駅の東口」と「歌舞伎町」の間に横たわる東口エリアには、ビートたけし、タモリ、細野晴臣などを生み出した「アングラ」の濃厚な歴史があったという事実です。だからこのヒット曲のタイトルを、私は「歌舞伎町の女王」と書いて「新宿東口の女王」「アングラの女王」と読みたくなるのです。

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