都市化で消滅した田畑と雑木林――生誕110周年・松本清張が描いた追憶の武蔵野台地

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都市化で消滅した田畑と雑木林――生誕110周年・松本清張が描いた追憶の武蔵野台地

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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2019年に生誕110周年を迎えた小説家・松本清張。同氏の作品は映像化され、今でもファンを魅了し続けています。そんな清張作品に込められた東京の情景について、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。

清張はなぜ武蔵野を描いたのか

 2019年は小説家・松本清張の生誕110周年。清張の小説は依然としてテレビドラマ化されています。『砂の器』がフジテレビで、『疑惑』がテレビ朝日で、また2007(平成19)年に放送された『点と線』、2012年に放送された『十万分の一の偶然』もテレビ朝日で再放送、TBSCSでも6か月に渡って、作品が放送されています。時代も相当違う小説なのに何故いまだに映像化されているのでしょうか。

『点と線』のロケ地となった東京駅(画像:増淵敏之)



 清張の小説の舞台は国内外、多岐にわたっていますが、東京を舞台にしたものは少なくありません。先述した『砂の器』は蒲田操車場、『点と線』は東京駅が重要な場面になりましたが、ほかには武蔵野周辺を舞台にした作品が多いことも驚きです。

『小説に読む考古学―松本清張文学と中近東―』(中近東文化センター。2005年)によれば、「武蔵野」に関わる説明は33作品に見出されるそうです。そしてその約7割、24作品が昭和30年代、また約2割、7作品が昭和40年代に著されたものであったといいます。

 もともと清張は福岡の小倉で前半生を送っているため、その周辺が舞台になっている作品が多く、年譜によれば芥川賞を受賞した1953(昭和28)年に朝日新聞東京本社に転勤し、単身赴任となっています。

 まず杉並区荻窪の叔母の家に寄宿。翌年、練馬区関町に転居し家族が上京します。そして、1957(昭和32)年に練馬区上石神井に転居後、1961年に杉並区高井戸にさらに転居。この地が終の棲家になりました。すなわち東京西郊の武蔵野に居を構え、作家としての文筆活動を本格化したともいえます。

都市化の現状を凝視した清張

 武蔵野が清張の小説の舞台にしばしば登場するのは、もちろん居住地の周辺であるという理由だけではないでしょう。

 松本清張全集『黒の様式』(文藝春秋)の巻末にある小説家・丸谷才一の解説によれば、清張は父と同じくして歴史や地理が好きだったようです。ですから風景描写も主観に流れず、どこか客観的というか、冷静に表現されています。社会派推理作家とも呼ばれた清張の面目躍如といったところでしょうか。

松本清張(画像:(C)新潮社、ミステリチャンネル)



 つまり清張は、都市化の進展によって作られた舞台の人々が犯す犯罪行為の心理に人一倍関心があったのではないでしょうか。都市化は犯罪を増加させるといいます。従来の農村的な信頼関係に基づいた社会が瓦解していくからです。

 東京は戦後の復興期から郊外は畑地、山林・原野、水田の順番で宅地化が進みました。その過程で、中には1960年代に玉川上水や五日市街道沿いの屋敷森や丘陵地などが風致地区に指定されたケースもあります。しかし現実的には都市化、スプロール化は避けられず、現在は武蔵野の大半が市街地になったといっても過言ではありません。

 清張はこの都市化の現状を凝視するのです。武蔵野を舞台にした作品をふたつ挙げてみましょう。

 ひとつは『黒の福音』です。この作品は1959(昭和34)年におきた「BOAC航空スチュワーデス殺人事件」を基に書かれており、戦後のキリスト教団の暗部を描いています。

「東京の北郊を西に走る或る私鉄は二つの起点をもっている。この二つの線は、或る距離をおいて、ほぼ並行して、武蔵野を走っている。東京都の膨れ上った人口は、年々、郊外へ住宅を押し拡げてゆくから朝夕は乗客で混み合う。しかし、二つの線の中間地帯は、賑かな街にもなりきれず、田園のままでもなく、中途半端な形態をとっている所が多い。この辺りになると、ナラ、カエデ、クヌギ、カシなどの雑木林が到るところに残っている。旧い径は、その林の中に入っている。林の奥には農家の部落がひそんでいる」(同作品)

 1960(昭和35)年前後の武蔵野の描写です。この描写は井草(杉並区)界隈とされています。スチュワーデスの死体が見つかるのが善福寺川、また荻窪周辺も数多く登場します。荻窪は戦前を代表する高級住宅地でしたので、この時期は既存の市街地ですが、井草界隈はまだ農家などが点在していたと言えます。

人々の苦悩や煩悩を増やした東京郊外の変化

 もうひとつの作品は『波の塔』です。

深大寺の山門と「そばごちそう門前」(画像:増淵敏之)



 こちらは青年検事が被疑者の妻の悲恋に身を焦がし、その彼に憧れる令嬢の純愛を対比させながら描いたロマンチックサスペンスです。令嬢が青年検事と被疑者の妻の逢瀬を見かけたのが深大寺(調布市)という設定になっています。

「ケヤキ、モミジ、カシの樹林は陽をさえぎって、草を暗くしていた。径の脇には去年の落葉が重なって、厚い朽葉の層の下には、清水がくぐっている。蕗が、茂った草の中で老いていた。深大寺付近はいたるところが湧き水である。それは、土と落葉の中から滲みでるものであり、草の間を流れ、狭い傾斜では小さな落ち水となり、人家のそばでは筧の水となり、溜め水となり、粗い石でたたんだ水門から出たりする」

 この作品もほぼ同時期のものですが、まだ深大寺の辺りは樹々で覆われていたことがわかります。現在でも井草に比べるとまだ昔の雰囲気が残っていますが、それでも清張が描いた風景とは随分、乖離しているように思います。

 清張の作品はトリックよりも人々の心理的な変化などの描写が魅力的です。東京郊外の変化は人々を新たな苦悩や煩悩を増やしてしまったのでしょうか。たまには清張が『波の塔』の一部を執筆した深大寺のそば店「そばごちそう門前」(調布市深大寺元町)へ足を延ばし、近くの神代植物公園(同)に行って、清張の作品を思い起こしてみるのもいいかもしれません。そこには作品の中に登場する、残された武蔵野の風景があるはずです。

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