40年前に消えた幻の南千住「東京スタジアム」、かつての労働者の熱狂を求めて歩く

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40年前に消えた幻の南千住「東京スタジアム」、かつての労働者の熱狂を求めて歩く

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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高度経済成長期、大衆を熱狂させた娯楽のひとつにプロ野球がありました。かつて球場があった荒川区南千住の地を歩くと、庶民とプロ野球との切り離せない関係を見て取ることができる――。法政大学大学院教授の増淵敏之さんは、そう指摘します。

2018年度、観客動員数はセ・パともに過去最多

 日本のプロ野球は今、2019年10月19日(土)から始まる巨人vsソフトバンクの日本シリーズを控えた盛り上がりのさなかにあります。

歓声を送る野球ファンたちのイメージ(画像:写真AC)



 戦後、順調に成長してきたプロ野球も、先行きを危ぶまれたことがありました。2005(平成17)年、対前年450万人以上(同18.5%)もの観客の減少に直面した年のことです。原因は2004年に起こった球界再編の余波と、観客動員数の実数発表への移行です。その後10年もの時間をかけて地道に客足を取り戻し、2018年度の観客動員数はセ・パ合わせた全858試合で計2555万719人、1試合当たりの平均は2万9779人に達しました。

今なお国民的人気を誇る、「プロ野球」の底力

 ちなみにこの数字をリーグ別でみると、セ・リーグは1423万5573人(1試合平均3万3183人)、パ・リーグでは1131万5146人(1試合2万6376人)。記録が残る1956(昭和31)年は年間約421万人(1試合平均4323人)だったので、2018年度はその5倍以上の規模になっています。地上波での中継が激減した現在でこの成績ですから、各球団の企業努力が実を結んでいる結果だと言えるでしょう。

プロ野球の観客動員数の推移(画像:日本野球機構のデータを基にULM編集部で作成)

 あえて問題点を挙げればセ・パ両リーグの動員格差が依然として残っていること。それは球団格差が根底にあるのかと思います。2018年度では楽天、ロッテ、オリックスが観客動員で伸び悩みました。しかしJリーグの観客動員数がJ1、J2、J3の計57クラブを合算して976万7611人ということを鑑みれば、日本におけるプロスポーツ市場はまだまだ野球が牽引(けんいん)している状況が見えてきます。

かつて東京を賑わせた、今は無きいくつもの野球場

 さて、日本ではベースボールのことを野球と呼びます。

 野球はアメリカで生まれたスポーツで、1871(明治4)年に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科で教え、その後日本全国に広まったとされています。

 野球という日本語が生まれたのは、明治時代の中期。第一高等中学校(現・東京大学教養学部)の生徒だった中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が、「野外または野原で行う競技」という英語の「baseball」を「野球」と翻訳したのが始めとされています。正岡子規が訳したとする説もありますが、それは子規の本名「升(のぼる)」にちなんだ「野球(のぼーる)」という筆名を用いただけで、ベースボールの意味として用いたわけではありませんでした。

 同じ時期に日本に入ってきた外来スポーツはほかにもありますが、野球だけがほかと異なる点があります。野球以外のほとんどが戦後、呼び名を英語へと変化させていった点です。たとえば蹴球(しゅうきゅう)はサッカー、篭球(ろうきゅう)はバスケットボール、排球(はいきゅう)はバレーボール……というように。卓球はテーブルテニスではなく卓球のままですが、ピンポンという別称が存在します。

 なぜ野球だけが和名を残したのだろうと、筆者は長らく疑問に感じていました。そしてそのヒントは、戦後日本の庶民の暮らし向きと野球との関係のなかにあるのではないかという推論を立てています。

草野球に熱中する少年たちのイメージ(画像:写真AC)



 戦後の日本人にとって、外来スポーツのなかでも野球はもっとも身近な存在でした。

 高度経済成長期に「巨人、大鵬、卵焼き」という流行語が生まれたように、長嶋茂雄・王貞治という2大スターを擁した巨人軍が絶大な人気を誇り、プロ野球そのものもまた庶民の娯楽の中心にありました。プロ選手に憧れる青少年は数多く、毎年夏の「全国高校野球選手権大会」は2019年で第101回、春の「選抜高校野球大会」は第91回を迎えました。スター選手が次々誕生し、野球と国民との距離を近づける役割を担い続けてきました。

 ひとつ、野球に関する豆知識をご紹介します。意外なことに、東京には「東京」という名を冠する野球場が現在たったひとつしかありません。そう、皆さんよくご存じの「東京ドーム」(文京区後楽)です。しかし、かつては東京と付く野球場がほかにいくつも存在していました。

 たとえば、武蔵野市西窪(現・同市緑町)にあった「東京スタディアム」や、杉並区上井草にあった「東京球場」。そして「光の球場」と親しまれた荒川区南千住の「東京スタジアム」です。

ナイターのカクテル光線が、下町を眩しく照らし出したころ

 プロ野球が始まったのは1936(昭和11)年。当時はプロ野球ではなく「職業野球」と呼ばれていました。

 草創期に試合が行われた球場は、日本初のプロ野球球団「日本運動協会」の本拠地だった芝浦球場(当時・東京市芝区)。さらにプロ野球初の日本一を決める巨人vs大阪タイガース(現・阪神)戦が行われた洲崎球場(当時・東京市城東区)。「東映フライヤーズ(現・日本ハム)」の本拠地だった「駒沢球場」は、世田谷区深沢町にありました。

 これらの球場もまたすべて閉場となり、当時のまま残っているのは明治神宮球場(新宿区霞ヶ丘町)だけになりました。東京ドームも、後楽園球場の建て替えによって誕生したものです。

 こうして今は無き野球場の数々を顧みるなかで、野球と庶民との慕わしい関係をもっとも表していたのが「東京スタジアム」(南千住)ではないかと、筆者は考えています。

かつての「東京スタジアム」跡地。現在は草野球場などに整備されている(画像:増淵敏之)



 南千住は、明治以降の東京において代表的な工業地帯のひとつでした。

 その面影は今なお、JR南千住駅を降りた道すがらに感じ取ることができます。近年ずいぶんとマンションが増えていますが、中小・零細の工場もまばらながらに存続しています。隣接する山谷は高度経済成長期、全国から大勢の労働者が集い、日本有数の寄せ場として発展しました。

 そんな土地に東京スタジアムが竣工したのは1962(昭和37)年。元は官営羊毛工場「千住製絨(せいじゅう)所」(1879年創業)があった場所です。東京スタジアムは当時としてはめずらしいナイター設備が特長で、眩しいほどの照明が人々を魅了し、「光の球場」と呼ばれて愛されたそうです。

 この球場を本拠地としていたのは「毎日大映オリオンズ(現・千葉ロッテ)」。オーナーの永田雅一が「下町に球場を造りたい」との思いから私財を投げうって建設したものの、彼の本業だった大映が映画不況の憂き目に遭い、東京スタジアムは1972(昭和47)年に閉場、1977年には取り壊しという末路を辿りました。

 現在その跡地を歩いてみても、マンションや警察署、スポーツセンター、2面の草野球場になっていて、かつてこの場所にスタジアム建築があった記憶を留めるものはほとんどありません。

 わずか10年で幕を閉じた東京スタジアムはしかし、当時、仕事の終わりに下駄履きで1杯引っかけながら球場に立ち寄る人々でたいそう賑わったそうです。少し歩けば都電「三ノ輪橋」駅にたどり着くこの野球場は、まさに東京・下町の盛り場と呼ぶにふさわしい輝きを放っていたことでしょう。

 高度経済成長期の下町の庶民、とりわけ過酷な肉体労働に明け暮れた男たちが、仕事の疲れをしばし忘れて野球に熱狂した姿を想像するとき、その様子は活気にあふれた昭和日本の原風景そのものと重なるように思えます。そしてその風景に筆者は、野球が「ベースボール」という英語名にならず「野球」のままで人々に愛された歴史の必然を垣間見る気がしてならないのです。

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