2020年開業、港区「高輪ゲートウェイ駅」 そもそも「高輪」ってどんな意味?

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2020年開業、港区「高輪ゲートウェイ駅」 そもそも「高輪」ってどんな意味?

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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2020年春に開業予定の高輪ゲートウェイ駅の「高輪」は、古代の街道だったとフリーライターで古道研究家の荻窪圭さんはいいます。そんな高輪を、荻窪さんに歩いてもらいました。

「高輪」と書いて「たかなわ」と読む

 そのネーミングに納得がいかなさすぎるというので署名運動まで起きた「高輪ゲートウェイ」駅。田町駅と品川駅の間にできる山手線と京浜東北線の新駅で、2019年11月16日(土)には新駅へ線路を切り替えるために、山手線と京浜東北線が16時まで運休する予定です。

工事中の「高輪ゲートウェイ」駅(画像:写真AC)



 「高輪ゲートウェイ」の「高輪」は「たかなわ」と読みます。難読地名のひとつですね。なぜそんな名前なのでしょう?

 語源には諸説ありますが、いちばん有力なのが「高台の縄手(道)」が「高縄手」になり、「高縄」となり、「高輪」という文字が当てられたというもの。「高縄手」という地名は全国にいくつかありますから、これが語源というのはありそうです。実際に「高縄」と書かれた文献もあります。

 「縄手」はもともと「田の中のあぜ道」を差しましたが、それが転じて長くてまっすぐな道も差すようになりました。「高いところの長くてまっすぐな道」。

 高輪にそんな道があるのか?

 あるんです。実は。古代から続く長くてそれなりにまっすぐな高台の尾根道が。今回はその古道の話。

泉岳寺経由で二本榎通りへ

 高輪ゲートウェイ駅ができるのは、都営地下鉄浅草線「泉岳寺駅」のすぐ近く。国道15号(第一京浜)沿いです。この道は江戸時代の「東海道」そのものなので、以後「東海道」と書きます。

奥に見える森が高輪大木戸跡で歩道はそれを迂回する形になっている。右が国道15号にして第一京浜にして旧東海道(画像:荻窪圭)

 江戸時代からずっと幹線道路で、江戸時代は海沿いギリギリの道でした。道を安定させるため、海側に石垣を作っていたくらいです。

 泉岳寺駅のA4番出口を出て東海道沿いに少し南へ行くと「高輪大木戸跡」があります。大木戸は江戸への出入口に設けられた木戸。街道の両側に土塁を作り、その間に木戸をつけ、夜になると閉じていました。その土塁が片方だけ残っているのです。車がびゅんびゅん走る大幹線道路の脇に、江戸時代の遺構が残っているというのは面白いものです。

 これにちなむなら「高輪門」駅とか「高輪口」駅でもいいんですが、「高輪ゲートウェイ」ってカタカナが入ったのがなんとも平成っぽいというか、まあいいんですけど。

 さてこの東海道は海沿いの低地の道なので「高縄手」ではありません。高縄手を求めて歩きましょう。

「高縄手」はどこだ?

 高輪大木戸跡から南に向かってしばらく歩くと、「泉岳寺」の交差点があります。ここを渡ると、泉岳寺への参道。

萬松山泉岳寺の中門。この奥に山門や土産物屋などがある。境内には赤穂義士の墓地や赤穂義士記念館もあるほどの「赤穂義士推し」(画像:荻窪圭)



 泉岳寺は江戸時代前期の1641年にこの高輪の地に移された曹洞宗の寺院。東海道より少し上ったところ、高輪の斜面を活かした立地にあります。

 泉岳寺といえば赤穂事件。吉良上野介を斬りつけた浅野内匠頭長矩と、吉良上野介邸に討ち入りを果たした赤穂浪士の墓地があることで有名です。

 細かい事情を抜きにすれば、吉良上野介は江戸城内でいきなり斬りつけられた上に、四十七人の浪人に寄ってたかって殺された哀れな老人なわけで、現代の感覚では吉良に同情せざるを得ないのですが、その辺どうなんでしょう?

 ともあれ、高縄手を目指しましょうと思いつつ、泉岳寺門前の坂道をゆるやかに左にカーブしながら上り、坂の上に達すると、そこは「伊皿子」の交差点。高輪の高台に出ました。

 この交差点を南北に横切っているのが高縄手、つまり、高台の尾根上を真っ直ぐに走る縄手道なのです。

 その名は「二本榎通り」ですが、実はここ、平安時代から中世の「古代東海道」だったといわれてます。古い街道は高台の尾根筋に多いことが知られています。

 谷筋の低いところは水害に遭いやすく安定した道を維持しづらい、敵に高所から狙われやすいというデメリットがあり、尾根筋には遅くまで明るく月明かりも頼りになるというメリットがありますから、電気も自動車もアスファルト舗装もない時代は尾根筋を歩きたくなるでしょう。

大石内蔵助が切腹した場所も

 そしてこの二本榎通りは、品川駅の西側あたりから三田まで、きれいに高台の尾根筋を貫いている、まさに「高縄手」なのです。これが高輪の語源だと私(荻窪圭。フリーライター、古道研究家)は思っています。

二本榎通りの高輪一丁目アパート前にたっている「大石良雄自刃の跡」の碑。この奥に「十六人忠烈の跡」が残されている(画像:荻窪圭)

 平安時代から続く道筋がここにあるんだなと思うとちょっと感慨深いですよね。

 ちなみに伊皿子交差点から二本榎通りを南西に向かうと、右手に広大な細川家下屋敷がありました。

 その一部は高輪皇族邸(旧高松宮邸)で、上皇上皇后両陛下の仮住まいとして仙洞仮御所として使われる予定です。

 細川下屋敷跡の残りの多くは現在都営高輪一丁目アパートとなっています。

 細川家下屋敷は赤穂浪士のうち大石内蔵助等17人が預けられ、切腹をした場所。今でも高輪一丁目アパートの奥にその跡が史跡として残されています。忠臣蔵好きの方はぜひ泉岳寺とともに訪問するとよいでしょう。

二本榎通りはお寺と消防署に注目

 そのまま二本榎通りを南下して品川駅に向かいましょう。

 二本榎通りは江戸時代に寺町となりました。いろんなお寺が通りの両側に集められたのですね。今でも通りの両側にお寺がいくつも見られます。ひとつひとつの紹介はしませんが、歴史を見てきた古いお寺がいっぱいあるのでのんびり回るのがよいでしょう。

 この通りを歩くときは左右をときどきチェックするのもおすすめ。右を見ても左を見てもちょっと下がっていて、尾根筋を歩いているのだなと実感できます。

 しばらく歩くと、交差点に塔を持つ古くてカッコいい建物が見えてきます。

ひときわ目立つ高輪消防署二本榎出張所。このあたりに二本榎の解説板も用意されています(画像:荻窪圭)



 それは高輪消防署二本榎出張所。この建物、1933(昭和8)年に建てられたドイツ表現主義の建物で、塔は火の見櫓(やぐら)として使われていました。高輪の高台だから消防署を建てるのに向いていたのですね。今でも現役の建物ですが、希望すれば中を見学させてくれます。近代建築に興味のある方はぜひ。

 ちょうどこのあたりが通りの語源となった二本の榎があった場所。江戸時代はその榎が目印になっていたそうです。さらに南下すると高輪三丁目の丁字路に出ます。この交差点から都営浅草線高輪台駅まですぐ。

 あるいはさらに南下し、品川駅へと出るのもよいでしょう。高輪の語源ともいえる二本榎通りを歩くと、高輪って地名がより身近に感じられるかと思います。

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