隣人は「近くて遠い存在」 私たちはどうすればわかり合えるのか? 過去の苦い経験をとおして考える

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隣人は「近くて遠い存在」 私たちはどうすればわかり合えるのか? 過去の苦い経験をとおして考える

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隣人トラブルは、いつの時代もつきものです。そんなトラブルについて、過去の記憶と、また別の思いを重ねながら、筆者がつづります。

向かいに引っ越してきた、あるファミリー

 東京のような都心は、隣人との交流が少ないと言われています。特に単身者は町内会や自治会に入ったり、引越しの際に挨拶したりという繋がりがまったくない人も珍しくありません。

 一方、常日頃たくさん交流をしていても、むしろ交流しているからこそ、関係が悪化する場合もあります。

住宅街の隣人のイメージ(画像:写真AC)



 筆者がまだ幼稚園に通っていた頃。自宅の向かいに、県外から転勤族ファミリーが引っ越してきました。お父さんとお母さん、そして筆者と同い年のよし君(仮名)の3人です。筆者とよし君はそれから、互いの家の駐車場や近所の公園でよく遊ぶ、いわば幼馴染の関係でした。

 よし君の家は、メロンという名前の大型犬を玄関前の犬小屋で飼っていました。メロンは全身がこげ茶色で、体毛はボーボー。そして性格は少し荒っぽいものでした。家に家族以外の人が近寄ると、今にも首がちぎれるのではないかと思うほど、いつも小屋から身を乗り出していました。

 ある日、よし君のお母さんがメロンを散歩させようと首輪とハーネス(胴輪)を取ろうとしたときのこと。暴れたメロンがお母さんの手をすり抜けて車道を横切り、筆者宅の方へ走ってきました。

 そして、家の前の駐車場で自転車の練習をしていた筆者に飛び掛かってきたのです。筆者は当時5~6歳でしたが、メロンが襲い掛かってきた瞬間の記憶は今でも鮮明に覚えています。

「あの家とは関わらないで」に発展

 幸いなことに、筆者は噛まれたり頭を打ったりすることはなく無傷でした。しかし近くにいた筆者の母親は、娘が目の前で大型犬に襲われたことがショックだったのでしょう。メロンを追いかけてきたよし君のお母さんに、抗議しました。

 そして話は、メロンが以前から危ない存在だと思っていたことや、地区のすべての人が町内会に入っているにもかかわらず、よし君の家がかたくなに拒み続けていることへの不信感に飛び火したのです。

狂暴な犬のイメージ(画像:写真AC)



 すると最初は謝っていたよし君のお母さんも、「引越しの挨拶時にメロンがいることを承諾したはずなのに、今さら感情論でそんなことを言うのは筋が違う。私たちにこの町から『出ていけ』というのか。こちらは謝っているのだからもういいでしょう」と応戦。

 数分間の言い争いがあった後、「もういいです。とにかくこの件については謝りましたから」と言い残し、よし君のお母さんはメロンとともに家に帰っていきました。筆者の母がそこまでヒートアップしたのは、母自身がペット全般を苦手していたことや、実家の敷地内に糞をする野良犬や野良猫に困っていたことも一理あったのでしょう。

 しかし、筆者は知っていました。メロンは攻撃しようとしたのではなく、筆者ともっと仲良くなりたくて走ってきたということを。

 その日の夜、その旨を母親に伝えると「それでも、あなたが傷ついたのは事実。あちらさんは引越してきたとき、『メロンは人を襲わない』としきりに言っていたのに、約束が違う。それに、ちゃんと謝れば許す気にもなるけど、さっきの態度は謝罪になってない」と、筆者はいさめられてしまいました。

 はっきりと言われたわけではありませんが、母親からのメッセージは、いわゆる「あの家とは関わらないように」。その後母親に扇動されるがまま、筆者はよし君と遊ぶのを止め、よし君から誘われることはなくなりました。

また仲良くなれると思っていたのに

 この件がきっかけかどうかはわかりませんが、よし君一家は小学校に進学するタイミングでふたたび引越していきました。よし君に淡い恋心を抱いていた筆者は、「小学校に上がったら、また仲良くできるかも」と期待していたため、なんだかとても絶望的な気持ちになりました。

住宅街のイメージ(画像:写真AC)



 その結果、筆者はその後の人生で意外な「余波」を受けることになります。メロンの件以来、犬が大嫌いになったのです。今では、散歩中のチワワやプードルを見かけるだけで距離を置くのはもちろんのこと、すれ違わないよう別の道を通ることすらあります。

 筆者の過激すぎるほどの「犬嫌い」は、よし君との未来が絶たれた感覚が作り上げたものかもしれません。筆者の心は傷つけられ、「犬なんか嫌ってもいい、憎んでもいい」と万人から「承認」されたような気持ちにさえなりました。

 また近所付き合いとは、子ども同士がどんなに仲が良くても、「お隣さんをそんなに嫌う必要はない」と訴えても、物事は大人の判断でしか動かないことも痛感したのです。

 筆者の母親にとって、よし君一家は厄介な隣人だったのかもしれません。きっとよし君のお母さんにとっても、筆者の一家が厄介な隣人だったのでしょう。お互いを憎み合った結果、せっかく隣になった「縁」が絶え、後味の悪さだけが残りました。

自分自身が大嫌いなメロンになるかもしれない

 筆者はその後成長し、進学を機に地元を離れ、数年前に都内郊外に自宅を購入しました。ご近所付き合いはゼロからのスタートです。お隣さんと日々顔を合わせて挨拶したり、自治会に参加したり、町内のボランティア活動をしたり、近所のママ友と仲良くしたりするなかで、先日、よし君一家のことが頭によぎりました。

ママ友と仲良く交流するイメージ(画像:写真AC)



 隣人と仲良くしようとしても、「受け取られ方」によって誰もが、相手を怒らせてしまったメロンのようになるかもしれません。また、言い争いが平行線をたどり、事態を不要に大きくした筆者の母親やよし君のお母さんのようになるかもしれません。はたまた、隣人と引き裂かれて悲しんだ、あのときの筆者のようになるかもしれないのです。

 そんなことを思うと、そもそもご近所トラブルは「隣人と必ず仲良くできるもの」という過信があるからこそ生じるのではないか、という気もします。だから、嫌われたり、何か気にくわないことをされたりしたときに火がついてしまう――。筆者の母親はそう思っていたのかもしれないし、逆によしくんのお母さんは、「別に仲良くなくてもいい」というスタンスだったのかもしれません。

 筆者が過去の経験や、新しい街での人付き合いをとおしてわかったこと。それは、感情に任せて言い争い、憎しみ合い、「〇〇なんて要らない」などと突っぱねるのではなく、付かず離れずの関係を保っていくのが、もっと大切なのではということでした。

※ ※ ※

 本文は、フィクションとノンフィクションを織り交ぜて書きました。隣人を嫌うことは簡単で、馬鹿にすれば一時的には気持ちがいいのかもしれません。でもそれで本当にいいのでしょうか。隣人とは近くて遠い存在。今こそ、真摯な向き合い方を考えたいものです。

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