表参道で知られる「同潤会」 モダンなアパートはすべて取り壊しも、「一般住宅」は都内に残っていた

  • おでかけ
表参道で知られる「同潤会」 モダンなアパートはすべて取り壊しも、「一般住宅」は都内に残っていた

\ この記事を書いた人 /

黒沢永紀のプロフィール画像

黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

ライターページへ

JR十条駅から北へ10分歩いた場所に、日本の集合住宅地の原点である同潤会の団地が残っています。同潤会という名前で、表参道を思い出す人も多いことでしょう。なぜこの場所に同会の団地があるのでしょうか。都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

そもそも、同潤会とは?

 JR十条駅から北へ10分。環七を渡って少し入った十条仲原のエリアに、今も同潤会の団地が残っています。

2002年、取り壊し前の同潤会青山アパート(画像:写真AC)



「えっ!?」と思われた人もいらっしゃるでしょう。同潤会は戦前に団地を建設した草分け的な存在で、2019年現在、オリジナルのアパートはすべて解体済み。唯一表参道ヒルズの一部に、同潤館として再生されているだけです。

 では、同潤会の団地が残っているとはどういうことでしょうか。今回は今でも残る、同潤会の団地の話です。

 1923(大正12)年9月2日。関東一円を襲った未曾有の大地震「関東大震災」によって、首都圏は壊滅的な打撃を受けました。東京の被災面積は当時の40%強。罹災者170万人は、当時の東京の人口の4割強に達します。

 1日も早い復興を目指して始動したのが「帝都復興計画」です。土地の区画整理から道路や橋梁、上下水道や電気・瓦斯といったあらゆるインフラ、学校をはじめとした教育施設、食堂や職安などの厚生福祉施設など、ほぼ都市機能のすべてが復興の対象となりました。

同潤会は、あらゆる住宅の復興を手掛けた

 特に住宅に関しては、1日も早い復興が望まれたのは言うまでもありません。震災後の住宅復興でもっとも活躍したのが「同潤会」です。同潤会は全国から寄せられた救援義損金の一部を充当して、内務大臣を会長に設立された財団法人でした。

 同潤会は、近年まで残っていた同潤会アパートで広く知られますが、鉄筋のアパートに限らず、分譲の木造戸建てやスラム街の不良住宅の改良など、あらゆる住宅の復興を手掛けた団体でした。なかでも多かったのが賃貸の木造住宅です。

 会の設立後、直ちに罹災者の住まいを確保すべく、2000戸強の仮設住宅を建設。ひととおり落ち着いた段階で、しばらく本格的な住宅造りへと移行しました。このときに建設されたのが「普通住宅」と呼ばれるものです。

大量に建設された同潤会の普通住宅

「普通住宅」は、もともと前述の仮住宅に対して「本住宅」と名付けられていました。しかし、不良住宅の改良の際に造られたものも本格的な「本住宅」だったので、その紛らわしさを解消するために、新築の賃貸木造住宅を「普通住宅」としたそうです。罹災前の「普通」の住宅での生活へ戻れるように、という思いが込められていたのかもしれません。

それなりの広さがとられた町の中心となる十条普通住宅地の街路広場の五叉路。左角にはかつて児童公園があった(画像:黒沢永紀)



 普通住宅は点々と建設されたわけではなく、いくつかの地域を選定し、その区画内にまとまって2階建の木造住宅を建てる形で進められました。一般的に鉄筋のアパートが林立する場所を団地と呼びますが、木造住宅でも、計画的に建てられた家屋が密集する場所も団地と呼びます。

 都内では赤羽、十条、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久の8か所、横浜は新山下、瀧頭、大岡町、井土ヶ谷の4か所、計12か所のエリアが選定され、宅地整備を含めて実に3500戸もの普通住宅が建てられたというから驚きです。同潤会が建設した鉄筋アパートは16棟なので、普通住宅の建設がいかに重要なポジションにあったかがうかがえます。

震災以前から提唱していた「規格型住宅」を踏襲

 12か所のエリアがいずれも少し近郊寄りに位置しているのは、都心部には「鉄筋のアパート、周辺部には木造住宅」という、同潤会が描いた青写真によるものでした。

2階への入口が側面に施工された松江の「4戸重ね建形式」の普通住宅(画像:黒沢永紀)

 普通住宅は、低所得者向けに低廉な賃貸住宅を大量に供給することを目的としていました。狭いものでは20平方メートル強、広くても40平方メートル前後で、間取りも6畳一間ないしは3畳+4.5畳から、広くても6畳+4.5畳というように、決してゆとりのある間取りではありません。

 中には2階建てで、1軒は1階に収まってますが、もう1軒は玄関と水回りだけが1階にあり、居室はすべて2階という、ちょっと使い勝手の悪そうな構造のものありました。これは「4戸重ね建形式」と呼ばれ、同潤会の評議員でもあった東京帝国大学教授の佐野利器(としかた)が、震災以前から提唱していた「規格型住宅」を踏襲したものです。

 このように、建屋自体はときにはオリジナリティがありながらも、なべて言うと「普通」を目指したものでしたが、普通住宅団地の特筆すべき点は、その町づくりにありました。

同潤会の素晴らしい功績

 例えば十条の普通住宅団地では、ふたつの広場を設け、主要な通路をその広場に集まるようにし、広場の近辺に管理事務所や集会所など、町の中枢を集約しました。そして、広場を結ぶ主要通路に商店や公共施設、そして公園といった町の主要な機能も集中させています。さらに広場の地下には防火用水を設置し、防災面でも万全の体制を整えていました。

 広場へと通じる主要な通路は4m以上の幅員で、主要通路から分かれて各戸へ通じる住宅通路は2~3mの幅員、そして各戸の勝手口を繋ぐ裏路地は2m弱といった具合に、とても綿密な街路設計もなされていたようです。

 同潤会の普通住宅団地は、使い勝手がとても良く、かつ町だけで完結できる機能を備えた、近郊の新しい住宅地の創造を目指したものでした。この住宅地全体の設計こそ、同潤会の大きな功績であり、その後の日本の計画的集合住宅地の原点ともいえるものだったのです。

 イギリスの郊外住宅のプランを大きく取り入れたと言われる同潤会の宅地計画。もちろん、参考にした点は多々あると思います。しかし、防火を考慮した広場や表通りの店舗と裏通りの長屋などは、すべて江戸の町とおなじ造り。海外の街並みを参考にするまでもなく、江戸長屋の街並みを参考にして考案されたことは、十分に考えられるでしょう。

同潤会普通住宅の現況

 2019年の現在、12か所の普通住宅団地で、オリジナルの家屋が残っている場所はほんの僅かになりました。ほとんどのエリアは、新しい家屋の間をぬうように通路の形や、ときに街角公園が残るばかりです。

 そんななか、松江(現在の江戸川区松江2丁目と中央2丁目の境付近)には、同潤会通りや同潤会病院(単純に地名からの命名)など、同潤会の名残を今に伝えるものがあり、同時にオリジナルと思われる建屋が1棟だけ確認できます。これが前述の「4戸重ね建形式」で、確かに2階への玄関が、建物の側面(妻側)に施工されているのは、ちょっと奇妙な光景です。

江戸川区松江2丁目。画像上に同潤会病院の表示が見える(画像:(C)Google))



 松江は、もともと葦(あし)の生い茂る湿地帯をゼロから宅地造成したため、通路は方位にあわせて綺麗な碁盤状に造られています。12のエリアの中では最大の500戸以上の普通住宅が建てられ、公衆食堂を併設するなど、付属施設も充実していました。

 しかし、今でも交通の便が悪い地域ゆえ、入居率がかなり低く、工場誘致や職業訓練所の開設などを試みたものの、結局、不人気を解決することはできませんでした。

風前の灯ともいえる残りわずかな普通住宅

 そして町の区画割はもとより、もっともオリジナルの建屋が残っているのが、冒頭でお伝えした十条エリアです。主要通路に面した店舗向け普通住宅、そして住宅路沿いに残る長屋形式の普通住宅など、いずれも数棟ですが、かろうじて創建当時の面影を今に伝えています。

 十条や松江に残る普通住宅は、さまざまな補修が施され、完全にオリジナルの姿を見ることはできません。東京はもちろん、全国にもあまたあるトタン張りの木造住宅と、ほとんど区別が付かない外観です。

 しかし国内で始めて計画的に造られた公的な団地であり、その後の日本の集合住宅地の原点がここにはあります。風前の灯ともいえる残りわずかな普通住宅。建築や住宅にご興味のある方は、早めにご覧になっておくことをおすすめします。

※十条の画像は2018年以前のものなので、2019年の時点で現存かは未確認

関連記事