昭和7年創業 両国「下総屋食堂」 かつては都内に500軒、現存わずかな都指定「民生食堂」の面影を訪ねる

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昭和7年創業 両国「下総屋食堂」 かつては都内に500軒、現存わずかな都指定「民生食堂」の面影を訪ねる

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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かつて都内に多く存在していた「民生食堂」。その役割と現在もわずかに残る同食堂のひとつ「下総屋食堂」の歴史について、都市探検家で軍艦島伝道の黒沢永紀さんが解説します。

年季を偲ばせる、藍色に染め抜かれたのれん

 JR両国駅から北へ3分ほど歩いた安田庭園沿いに、味のある店構えの民生食堂「下総屋食堂」(墨田区横網)があります。今では都内に数少ない「民生食堂」とは何か。今回は戦前から食堂を営む下総屋さんの2代目女将に、お話をうかがいました。

藍染ののれんに瑠璃瓦の庇(ひさし)がアクセントの下総屋食堂(画像:黒沢永紀)



 JR両国駅の北口は、今では両国国技館と江戸東京博物館がランドマークとして知られますが、それ以前は国鉄の車両基地とやっちゃ場(東京の野菜市場)があり、さらに明治時代には陸軍施設があった、少し変わった「磁場」を持つエリアでした。

 その一角に店を構える「下総屋食堂」は、広島出身の先々代が1932(昭和7)年に開店した老舗の大衆食堂。この一帯だけ、かろうじて戦禍を免れているので、店構えは戦後の看板建築ですが、建屋自体は1923(大正12)年9月に発生した関東大震災後に建てられたままだとか。藍色に染め抜かれた屋号ののれんが、年季を偲ばせます。

 そして、店内にあるおかずの陳列棚の上には「東京都指定民生食堂」のプレートがしっかりと貼られています。民生食堂……ご存知ない人もいらっしゃると思うので、少し民生食堂のお話を。

かつては、都内に513軒あった民生食堂

 時は戦時下。食糧難の時代を迎えた日本では、米の配給制と同時に、食堂も登録制に。ひとりひとりの米の量を記録する「米穀通帳」が発行され、単身赴任者など、主に外食で暮らす人は、米穀通帳を提示して「主要食糧選択購入切符」、いわゆる「外食券」を交付してもらい、登録された食堂で食事をしていました。

懐かしい東京都のマーク入り東京都指定民生食堂のプレートが貼られたおかず棚。上段にはなぜか懐かしい怪獣のソフビが(画像:黒沢永紀)



 戦後になると外食券が高値で取引されたり、闇市では外食券がなくても雑炊を供する「雑炊食堂」ができたり、徐々に物資供給が安定するようになったりと、外食券の必要が徐々になくなったことで、1951(昭和26)年に外食券制度が廃止に。この時の外食券食堂が、都に指定されて「民生食堂」となります。都が販売価格を指定するなどして、三食を外食で暮らす人たちの食生活の安定を目的とした制度でした。

 下総屋食堂は、戦前から営業しているので、一般食堂から外食券食堂、そして民生食堂という歴史をつぶさに歩んできたことになります。かつて都内に513軒あった民生食堂も、いまではほとんどが姿を消し、営業しているお店はほんのわずかです。

 2019年現在、下総屋食堂は2代目の女将さんと3代目の息子さんが切り盛りし、その味付けは初代からの直伝です。関東にしては珍しい少し甘めの味付けは、初代が関西のご出身だからでしょうか。

柳橋の料亭が川の向こうにあった光景

 2代目の女将さんが下総屋へ嫁いだのは1954(昭和29)年のことでした。すでに民生食堂になっていた時代ですが、それでも昭和30年代の中頃までは、外食券を持って食べに来るお客もいたようです。

「お嫁に来た頃は、コンビニも無いし、立ち食いも無いし。朝7時からお店を開けてたけど、すぐにいっぱいでしたよ」と思い出を語ってくれます。「その頃は、両国の駅前も原っぱでさ、向こう岸へ渡るポンポン蒸気の乗り場があったね~」

「川の向こうっかわは柳橋の料亭がずーっと並んでいて、夜になると綺麗でね。こっちからみえるんですよ。芸者さんがお酌するのがさ。で、夏なんかは川床(かわどこ・かわゆか。川面へつき出すようにして設けられた仮設の席)がでて、夜、暗くなるとね、小舟で新内流しが来て。あれはなんとも言えない雰囲気ですね」

 戦後の両国に遺っていた東京の原風景が目に浮かびます。

夫の他界で1年休業も、常連のエールで復活

 民生食堂は、地域ごとに組合を作り、下総屋のある両国は錦糸町や押上界隈と同じ組合でした。

「一膳飯屋」という言葉がぴったりなシンプルな店内(画像:黒沢永紀)



 かつては十数軒あった会員の店も、今では押上と向島、そしてこの下総屋の3軒だけとなり、組合もすでに解散しています。

「今は9時半から営業してるけど、朝ごはんを食べる人がいなくなったね。スーパーやコンビニでおにぎりを買ってすませる人も多くなったし」

 それでも、ランチタイムは近隣で仕事をする人で混み合うようですが、ピークはそこまで。

 ときには「暇じゃないですか?」とたずねられたこともあったようですが、女将も「見ての通りですよ!」とキッパリ。2年前に旦那さんが他界し、約1年休業していました。しかしその間、再開を願う電話が何本もあり、再び店を開けた時には、ご常連さんが何人も来てくれたそうです。

フランス人がスマホで伝えた「おいしい」の言葉

 最近は、中国人や韓国人をはじめとした海外からの旅行者がよく訪れるといいます。

どれも優しい味わいの、タケノコと高野豆腐の煮付に鯖の味噌煮の定食(画像:黒沢永紀)

 パリから来た若いの女の子がひとりで来店した時の話。おかず棚をさんざん眺めたあげく、ご飯だけを注文し、醤油をかけて食べはじめました。

「あまりにかわいそうだったんで、おかずの盛り合わせを出してあげたわよ」

 2代目女将の暖かい人柄がうかがえます。パリの女の子は最初におかずだけをたいらげ、醤油かけたご飯を食べた後に、スマホの翻訳機で「とてもおいしかったです」と女将に伝えたそうです。

「飽食の時代」と言われて久しい現在、おそらく東京は、世界で最も外食の種類が豊富な都市かもしれません。少なくとも、朝は和食、昼には中華、そして夜はイタリアンがあたりまえの食生活になりました。

 しかし、たった5、60年前に食券がないと外食ができず、栄養もろくに摂れなかった時代があったことを民生食堂は教えてくれます。そんな時代に想いを馳せながら、優しい味のサバの味噌煮定食を、体の隅々まで沁み込ませました。

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