1953年完成も、解体間近の「中野駅前住宅」が伝える集合住宅の「原点」とは?

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1953年完成も、解体間近の「中野駅前住宅」が伝える集合住宅の「原点」とは?

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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中野駅前に、1953年完成の鉄筋コンクリート造のアパートがあります。その名も「中野駅前住宅」。こんな古いアパートはいったいなぜ今まで残ってきたのでしょうか。その歴史と詳細な造りを、都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

「偶然の産物」として令和に至る

 JR中野駅の駅前に、古色蒼然とした鉄筋アパートの団地があります。「あります」というよりは、ほどなく「ありました」となってしまう東京都住宅供給公社(現・JKK東京)の「中野駅前住宅」。団地の原点が、またひとつ消えようとしています。

パッと見は戦後のスタンダートな団地の形をしていた中野駅前住宅(画像:黒沢永紀)



 中野駅前住宅は、1953(昭和28)年に完成した東京都住宅供給公社(以降、公社)のアパートで、戦後の鉄筋コンクリート造のアパートでは、ごく最初期のものでした。

 ちなみに、戦後に初めて建設された鉄筋の集合住宅は都営の高輪アパート(昭和23年)。その後、都や区、公団(現・UR)や公社によって、続々と鉄筋コンクリート造のアパートが建設され、高度経済成長と歩みを共にした団地の時代がスタートしました。

 都の外郭団体だった公社も1950(昭和25)年に鉄筋造の建設許可を取得し、早速アパートの建設に取り掛かります。最初に竣工したのが1951年築の市ヶ谷の薬王寺アパート。以降、急ピッチで建設を進め、中野駅前住宅はその翌年に第1期工事を完了しました。

 高輪アパートの建設から70年。都営の上目黒アパート(昭和23年)や角筈アパート(昭和26年)など、平成になってからも遺っていた戦後すぐのアパートは、その多くが改築や解体され、おそらく一番古かったと思われるのがこの中野駅前住宅です。

 中野駅前住宅が令和まで残っていたのには、特別な理由があったのでしょうか。JKK東京の話によると、中野区の開発計画と折衝をしているうちに、ただ時間が経ってしまったとのこと。積極的な保存運動などの結果ではなく、単純に偶然の産物だったというわけです。

風通し良好で、エアコンいらず

 6棟(完成時は7棟)の建物はすべて「かまぼこ」とか「羊羹」などと呼ばれた階段室型。棟の中に数か所の階段があり、階段踊り場の両側に部屋が施工される、戦後団地のスタンダードな構造です。

戦後の団地としては珍しい、スクラッチ・タイルで飾られた階段の出入口(画像:黒沢永紀)



 階段室型は、スペース的に無駄が多い構造ですが、部屋の対面する2方向に大きな窓を設置できるので、とても風通しが良いのが特徴です。エアコンがなく、また必要もなかった戦後の時代。夏でも窓を開け放てば、扇風機すらいらないくらい涼しかった当時の日本の気候を前提に考案されたのでしょう。

 建物の周囲に低木や草花と併せて、背の高い木がいくつも植樹されているのも戦後の公共団地の特徴的な造りで、これは現在も受け継がれています。ご多聞に洩れず、中野駅前住宅の敷地内にも、定番のヒマラヤスギが何本も育っていました。

 居室は、全室6畳+4畳半にキッチン1.8畳で30平方メートル弱の2K。「C型」と呼ばれた造りで、これも外観と同様に戦後の公共団地を一世風靡した、最も基本的な間取りです。

壁面にもスクラッチ処理が施された作り

 そんな昭和の典型的な団地の光景を作り出していた中野駅前住宅ですが、ほかの公共住宅と異なる点が少しありました。それは装飾が見られること。特に階段出入口の周囲をスクラッチタイルで囲い、さらに棟ごとに色やスクラッチの具合に変化を与えています。スクラッチタイルとは、表面に引っ掻き傷を入れて焼いたタイルで、戦前、特に昭和初期の建物に多用されました。

スクラッチ・タイルよりさらに珍しい、弧を描く部屋の角の処理(画像:黒沢永紀)

 スクラッチタイルの使用は顕著なものですが、それ以外にも、壁面にタイルと同様のスクラッチ処理が施されているのも、戦後の鉄筋アパートとしては珍しいことではないでしょうか。

 室内に目を向けると、各部屋の角に弧を描く処理が施されているのも珍しく、これは戦後の団地に限らず、あらゆる時代の団地やマンションと比べても、ごく稀な例だと思います。

 戦前には「豆腐に目鼻」と揶揄されて受け入れられなかった無装飾な建築、すなわちモダニズムの建築も、戦後アメリカ文化の流入などでその新規性がやっと理解され、装飾を排除した建物が続々と建てられるようになりました。公共の集合住宅も例外ではなく、階段や窓といった機能的な要素だけで構成された建物が、戦後の団地の大きな特徴です。

竣工当時は高級だった

 中野駅前住宅の装飾は、戦後の建物が突然変異のように無装飾になったわけではなく、戦争で中断されながらも、戦前から続く緩やかな変化の中で、徐々になくなっていったことを物語る数少ない証でした。

後年にベランダの半分が浴室に改装された南向き居室側(画像:黒沢永紀)



 2つの居室はいずれも畳敷き。狭い台所にダイニングテーブルを置くスペースはなく、居室で卓袱台の上げ下げをする、いわゆる「お茶の間」が基本的な使い方でした。水洗トイレは当初から完備されましたが風呂はなく、後年になってベランダに施工されています。そのせいで、浴室内に外壁と窓がある、不思議な空間を生み出していました。

 30平方メートルで2Kの風呂なし。いまから見ると設備も少なく狭い印象もありますが、幼少期からご家族3人でお住まいだった方に話をうかがうと、決して狭いと感じたことはなく、十分満足して暮らしていたとのこと。今より家電や家具のサイズが小さく、バリエーションもなかった時代。それほど物を置くスペースが必要なかったのかもしれません。

 それでも家賃は、当時の価格で月に3350円ほどだったといいます。公務員の平均月収が8000~1万円、大学の初任給が約4500円の時代なので、決して安くはありません。竣工当時は高級なイメージのアパートだったことがうかがえます。

集合住宅の原点を忘れずに

 住民の多くは、以前から隣接する14階建の「コーシャハイム中野フロント」へ移転し、2019年8月の連休をもって、最後の住民の引越しもほぼ完了しました。

綺麗なスクラッチが入った若草色のタイル。壁面にもスクラッチ処理が施されているのが見てとれる(画像:黒沢永紀)

 コーシャハイム中野フロントは、風呂トイレやエアコンはもちろん、床暖房やミストサウナから家具転倒防止用の留め具下地、そして宅配ボックスも備えた最先端の集合住宅。平均17.5万円の家賃は、ちょうど中野駅前住宅の初期の賃料と同じくらいの価値でしょうか。そう思うと隔世の感が否めません。

 中野駅前住宅はまもなく70年近い歴史に幕を下ろし、跡地には、巨大なショッピングセンターとタワーマンションの建設を控えています。戦後から令和へ。集合住宅は劇的な変化を遂げ、住環境も格段に向上しました。今後ますます進化を遂げ、AIの完全導入も時間の問題でしょう。しかし、集合住宅の原点のひとつ「狭いながらも楽しいわが家」がここにあったことを、記憶にとどめておきたいと思います。

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