招き猫まみれの「豪徳寺」 400年以上前、その場所にあった意外なものとは? 滋賀県の有名キャラとの関係も明らかに

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招き猫まみれの「豪徳寺」 400年以上前、その場所にあった意外なものとは? 滋賀県の有名キャラとの関係も明らかに

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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近年、外国人にも大人気の豪徳寺。そんな豪徳寺が建立される前、実はその場所に意外なものがありました。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

招き猫の豪徳寺は、城跡に作られたお寺

 招き猫で有名な世田谷の豪徳寺。東京の観光名所としてどこかで世界的に紹介されたのか、外国人観光客に出会わない日がないというくらいの盛況っぷりです。奉納された招き猫がずらりと並んだ様は、多くの人を魅了しています。

 そんな豪徳寺があるのは世田谷区の中心部。実は室町時代の城の跡に建てられたお寺なのです。ではさっそく、招き猫のルーツをさかのぼってみましょう。

豪徳寺にある「招福猫(まねぎねこ)」奉納所には無数の招き猫が奉納されていて、一大観光スポットに(画像:荻窪圭)



 時は室町時代。世田谷には鎌倉へつながる街道が通り、烏山川が作った谷地を天然の堀とした「世田谷城」がありました。江戸時代の地図にも「古城跡」と書かれてますし、今でも「世田谷城址公園」(世田谷区豪徳寺)という公園として、当時の空堀(からぼり。水のない堀)や土塁(土を盛り上げて作った砦)の跡が残ってます。

 世田谷城の城主は「吉良氏」。キラといえば思い出すのが「デスノート」……じゃなくて、忠臣蔵の吉良上野介ですが、吉良上野介の三河吉良氏(うじ)と世田谷城の世田谷吉良氏はルーツこそ同じです。家としては鎌倉時代からすでに分かれていますから、超超超遠い親戚筋レベル、1702(元禄15)年の赤穂事件とは関係ありません。

 世田谷吉良氏の系統は江戸時代も生き延びてまして、世田谷にある勝光院(同区桜)に墓地が残っております。室町時代後期には、世田谷城主の吉良政忠が叔母「弘徳院」の為に場内に庵を開きました。これ、大事。

 やがて、戦国時代となり吉良氏は小田原北条氏の傘下に入り、小田原北条氏の娘を正室に迎えて、世田谷も街道筋の城下町として栄えました。が、1590(天正18)年、秀吉の小田原攻めで北条氏が負け、世田谷城も廃城となりました。残った城内の「弘徳院」は……荒れ果ててしまいます。

豪徳寺の招き猫は「ひこにゃん」のモデル?

 さて江戸時代。徳川四天王のひとり井伊直政は彦根藩藩主となり、その息子・直孝のとき、世田谷一帯が彦根藩世田谷領として与えられます。なんと、世田谷は彦根藩の領地だったのですね。

 その井伊直孝が鷹狩りへ行った帰り、とあるボロ寺の門前でしきりに手招きする猫がありまして、気になって入ってみるとそれは和尚の愛猫。渋茶をすすりながら意気投合し、直孝がその僧に帰依(猫のおかげで直孝一行が落雷から逃れたって話もついてきます)。かつての弘徳院は無事に井伊家の菩提寺となり、のちに井伊直孝の法名から「豪徳寺」と名づけられて立派になりました。

城山通りから豪徳寺への入口。世田谷城の土塁に挟まれた松並木の奥に山門が見える(2019年夏現在改修工事中)。こちらから参拝したい(画像:荻窪圭)



 井伊家代々の墓所も作られ(桜田門外の変で殺された井伊直弼の墓もあります)、そのときの猫は寺に福を招いたってことで、それをかたどった「招き猫」が作られたのです。彦根城城主の井伊直孝を落雷から救った猫ということから、彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が誕生しました。なんと、滋賀県彦根市のひこにゃんと東京都世田谷区豪徳寺の招き猫にそんな関係が!

 話が広がりすぎたのでまとめますと、

・豪徳寺のルーツは世田谷城内の庵だった
・井伊直孝を招いた猫が「招き猫」のルーツだった
・豪徳寺の招き猫は「ひこにゃん」のルーツだった

というわけです。この3つを知るだけで豪徳寺訪問が3倍楽しくなります。

 ではいざ豪徳寺へ。小田急線に豪徳寺駅がありますからそこから行くのが普通、と思いがちですが、わたしのおすすめは東急世田谷線の上町駅。世田谷の城下町として栄えたのがこのあたりだからです。

 上町駅から南へ向かって歩き、世田谷通りを渡って坂を少し上りますと、東西の古い真っ直ぐな道が現れます。実はこれ、世田谷通りの旧道で、往時の世田谷宿で(上町の語源は「上宿」です)、戦国時代に小田原北条氏がここに「楽市」を開いて賑わっていた場所。今でも年に2回「世田谷ボロ市」が開催されますが、そのルーツは戦国時代に遡るのです。家康が江戸にやってくるずっと前に栄えていたのですね。この旧街道沿いには「世田谷代官屋敷」が残ってます。

豪徳寺へは上町から世田谷城攻めの気持ちで!

 世田谷城が廃城となったとき、吉良四天王(またもや四天王登場!)のひとりだった「大場氏」はそれを期に、世田谷で帰農しました。武士をやめて農民に戻ったのですね。それに目を付けた井伊家が、世田谷の代官に任じたのです。

 以来、紆余曲折はあったものの大場氏が代官をつとめ、その屋敷と門が残ってます。敷地には世田谷区立郷土資料館もありますから興味のある方はぜひ。

 そしてまたボロ市通りに戻り、上町に戻ります。まっすぐ北を向くと遠くに森が見えます。これが「世田谷城址公園」。世田谷城の南東の角が城址として公園になってます。空堀や土塁といった室町時代の城の遺構を味わえます。高低差を気にしながら歩くと、お城が少し高台に作られたことが実感できます。

世田谷城址公園。少し高台になっている。石垣があるがこれは昭和のもの。当時は石垣はなかった(画像:荻窪圭)



 世田谷城址公園前の城山通りを西に向かうと豪徳寺の表参道。まっすぐの松並木を超えると豪徳寺の山門(2019年夏現在修復工事中でありますが)が現れます。

 寺内正面には江戸時代に建てられた仏殿。その手前には井伊直孝の菩提を弔う江戸時代前期の大きな石灯籠が残ってます。この燈籠、よく見ると井伊直孝の法名が刻まれており、そこに「豪徳」の文字も見えます。

 仏殿の左手にあるのが招福観音堂。招き猫エリアですね。奉納された素焼きの招き猫が無数に並んでいて圧巻です。この招き猫はお寺の庫裏で豆サイズから大きなものまで売られています。わたしもいくつか持ってます。

 豪徳寺の西側の奥は井伊家の墓所。井伊直孝から直弼までずらりと並んでいます。幕末好きの方は是非こちらにも参りましょう。

 帰りは東急世田谷線宮の坂駅が最寄りですが、駅の反対側にある世田谷八幡宮を詣でて、そこから北に抜けて小田急線豪徳寺駅まで歩くのもおすすめ。豪徳寺駅へ向かう商店街は江戸時代の古道です。

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