発祥の地は大手町駅から徒歩数分、江戸草創期の「色街」をたどる

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発祥の地は大手町駅から徒歩数分、江戸草創期の「色街」をたどる

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八木澤高明

ルポライター

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華やかさと陰を併せ持つ「色街」。江戸時代における色街の発祥について、ルポライターの八木澤高明さんが解説します。

江戸草創期の色街だった「鎌倉河岸」

 スーツ姿のサラリーマンがひっきりなしに行き交う大手町から、神田方面に歩いていくと日本橋川に架かる鎌倉橋があります。橋の上から川面を眺めると、川に沿って首都高速道路が走っているため、昼間にも関わらず、水は暗く沈んでいます。かつては江戸城を守る堀として機能した日本橋川ですが、今では都市に横たわる巨大な暗渠にすぎません。

吉原に残る歴史を感じさせる建物(画像:八木澤高明)



 この鎌倉橋の袂にある鎌倉河岸(かし)は、東京のはじまりを徳川家康の江戸入府とするならば、吉原ができる以前、江戸草創期の色街のひとつであったのです。

 今では色街の雰囲気などどこからも漂ってくることはなく、高層ビルが建ち並ぶ街の一角にすぎません。鎌倉河岸に色街が形成されたのは、家康が江戸城を天下人の城として大規模な普請(ふしん。建築工事)をしたことと、葦の原であった江戸の街を開発したことにあります。

 鎌倉河岸は、その際の木材や石材を運び込むための荷揚げ場所でした。この場所に人と物が行き交うと、食い物や酒を売る店が立つようになり、いつしか遊女を置く遊女屋ができたのでした。鎌倉河岸の名前の由来は、資材の主要な供給地であったのが相模や伊豆で、物流を取り仕切っていた鎌倉の商人たちがこの地に居を構えたことからその名がついたといいます。

 一方で家康以前、平安時代から鎌倉時代にかけて江戸の街を最初に築いた江戸氏の時代から、鎌倉河岸の地名があったという説があります。

 江戸氏が築いた江戸の街は、鎌倉幕府の港、鎌倉や六浦と、さらには墨田川や利根川の水運などを利用して、霞ヶ浦や北浦とも繋がっていたといいます。その拠点となったのが鎌倉河岸なのです。

 鎌倉の地名は、東京の神田だけでなく、葛飾区や埼玉の三郷など、水運の要所に点在し、鎌倉時代に遡る物流のネットワークの存在を物語っています。そう考えると、家康は鎌倉時代に築かれた水運や経済の要衝(ようしょう。商業や交通、軍事などで重要な場所)を利用し、江戸の街を大規模にリニューアルしたことになります。

 物流の要所は、常に色街と密接に繋がっていることから、江戸時代この地にあった遊女屋の歴史も鎌倉時代あたりに遡るかもしれません。

日本橋の人形町界隈にあった「元吉原」

 江戸時代の草創期の色街は、喜多川守貞の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、鎌倉河岸に十四、五戸、ほかにも城西麹町に十五戸、大橋内柳町に二十余戸と記されています。各所に色街が散らばっていたことがわかります。最後に挙げられている大橋とは、日本銀行本店近くに架かる常盤橋のことで、柳町はかつて江戸城と日本橋川を結ぶために掘られた道三掘沿いにありました。

かつて色街が存在した鎌倉河岸付近(画像:八木澤高明)



 ちなみに柳町とは色街を指すことが多く、その起源は京都に豊臣秀吉が築いた柳町に端を発します。道三掘の柳町には、京都の柳町から移り住んで商売をした人が多かったといいます。新造の街であった江戸には、各地から人々が流れ込んでいますが、色街にも同じことがいえます。

 徐々に江戸の街が拡大していくと、鎌倉河岸や柳町は江戸の中心に位置するようになりました。幕府は風紀上好ましくないと思ったこともあり、1617(元和3)年に庄司甚内(しょうじ じんない)の申し出を認め元吉原を設置します。吉原の語源は、元々は葦の原だったことから葦原となり、縁起を担いで吉原となったといいます。

 吉原といえば、台東区千束にあるソープランド街を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、元吉原が明暦の大火によって全焼し、浅草寺裏での仮営業を経て、1657(明暦3)年に移ったのが現在の吉原でになります。元吉原の場所は、日本橋の人形町界隈にありました。

吉原より人気だった「丹前風呂」

 元吉原の界隈を歩いてみました。人形町の交差点から、大門通りを入った辺りが元吉原の場所です。当時は、四方を掘割で囲まれていましたが、今ではアスファルトの道となり名残はありません。ただ、居酒屋や割烹などが肩を寄せ合うように並んだ一角もあり、どことなく色街だった空気が漂っています。

江戸時代の石積みが今も吉原の一角には残っている(画像:八木澤高明)



 元吉原には、江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町と町割りがされ、江戸市中や京都や大阪、駿河などからも遊女屋が集まりましたが、鎌倉河岸にあった遊女屋は江戸町二丁目に移ったといいます。

 吉原は幕府の公認の色街でしたが、吉原以外にも幕府の許可を得ない色街が江戸には百ヶ所以上存在したといいます。そうした色街は岡場所と呼ばれました。

 百万人の人口を誇った江戸は、常に女性は人口比の4割ほどで、常に女性不足だったこともあり、吉原だけでは男たちの欲求を満たすことができなかったのです。

 岡場所のひとつに神田雉子(きじ)町にあった丹前風呂(たんぜんぶろ)があります。堀丹後という武士の屋敷の前にあったことからその名がつきました。江戸時代のはじめ、江戸の町は造成の真っ只中で埃っぽく、風呂屋が人気を呼び、そこで男たちの背中を流した湯女が、春を売るようになったのです。

 江戸の中心部あった丹前風呂は、外れにあった吉原より気軽に足を運ぶことから、人気を呼び、吉原には閑古鳥が鳴きました。吉原の遊女屋は、幕府に何度も取り締まりを願い出たほどでした。結局、丹前風呂は明暦の大火後に徹底的な取り締まりに遭い、廃業に追い込まれ、湯女たちは吉原に吸収されたのです。

 江戸のはじまりから色街は存在し、代表格の吉原は今日まで四百年の歴史を保ち続けています。世界的にみても、これほどの歴史を持つ色街は稀有なのではないでしょうか。

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