発祥の地は大手町駅から徒歩数分、江戸草創期の「色街」をたどる
2019年7月28日
知る!TOKYO華やかさと陰を併せ持つ「色街」。江戸時代における色街の発祥について、ルポライターの八木澤高明さんが解説します。
日本橋の人形町界隈にあった「元吉原」
江戸時代の草創期の色街は、喜多川守貞の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、鎌倉河岸に十四、五戸、ほかにも城西麹町に十五戸、大橋内柳町に二十余戸と記されています。各所に色街が散らばっていたことがわかります。最後に挙げられている大橋とは、日本銀行本店近くに架かる常盤橋のことで、柳町はかつて江戸城と日本橋川を結ぶために掘られた道三掘沿いにありました。

ちなみに柳町とは色街を指すことが多く、その起源は京都に豊臣秀吉が築いた柳町に端を発します。道三掘の柳町には、京都の柳町から移り住んで商売をした人が多かったといいます。新造の街であった江戸には、各地から人々が流れ込んでいますが、色街にも同じことがいえます。
徐々に江戸の街が拡大していくと、鎌倉河岸や柳町は江戸の中心に位置するようになりました。幕府は風紀上好ましくないと思ったこともあり、1617(元和3)年に庄司甚内(しょうじ じんない)の申し出を認め元吉原を設置します。吉原の語源は、元々は葦の原だったことから葦原となり、縁起を担いで吉原となったといいます。
吉原といえば、台東区千束にあるソープランド街を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、元吉原が明暦の大火によって全焼し、浅草寺裏での仮営業を経て、1657(明暦3)年に移ったのが現在の吉原でになります。元吉原の場所は、日本橋の人形町界隈にありました。

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