銀座から2駅、江戸から続く「原風景」があった 路地や井戸が織りなす異空間、いったいどこ?
2019年7月14日
お出かけ東京という大都市の喧騒に疲れたあなたを癒す場所が、銀座から2駅の場所にあります。その名は佃島。いったい何があり、どのような歴史があるのでしょうか。都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。
そこかしこに長屋がある新佃島
今回この佃エリアを取り上げたのは、ここに東京の原風景が今でも静かに息づいているからです。月島を取り囲む運河が防火壁となって、先の大戦の戦禍をかろうじて免れたため、戦前の街並みが数多く残りました。

新佃島には、そこかしこに長屋、それも五軒以上が連なる長屋が散見します。江戸時代は、長屋といえば八軒や十軒など、長世帯は当たり前でしたが、関東大震災以降、類焼を避けるために、三軒を限度とすることが推奨された結果、現在都内に残るものは三軒長屋がほとんど。五軒以上の長屋は珍しい例です。
さらに新佃島の特筆すべき点は、長屋が単体で残っているだけではなく、裏長屋の街並みがまるごと残っていることにあります。通りに面した「表店(おもてだな。商店)」の後ろに長く連なって、店が管理する賃貸の共同住宅、すなわち長屋があり、隣接する長屋に挟まれた土地は路地を造って、ちょうどその真ん中あたりに、井戸を囲んだ共同水場と共同厠(かわや。トイレ)、そしてゴミ捨て場があったりするのが裏長屋の街並み。このすべてのアイテムが揃って、江戸時代から続く長屋街となります。
昨今は江戸東京博物館(墨田区横網)を始め、江戸の街並みを再現した地域資料館も多く、裏長屋の様子をジオラマで見ることはできますが、実際の長屋街をまるごと体感できるのは、知る限りこの新佃島のだけです。
時代劇などにしばしば登場する、井戸端会議に花を咲かせる女性たちのシーンは、この裏長屋の光景で、水場を中心にしたコミュニティの規模や距離感をリアルに知ることのできる貴重な一角と言えるでしょう。
また、新佃島には、昭和初期の典型的な商店建築三種を計画的に並べたとしか思えない、博物館のような一角もあります。一軒は町家といわれる、昭和初期まで造られてきた基本的な木造の商店建築。一軒は銅板葺の看板建築、もう一軒は人造石による看板建築です。なお看板建築とは、関東大震災の後から高度経済成長期の終わり頃まで、国内で作り続けられた路面店舗の典型的な建築方法です。
上記の裏長屋街や商店以外にも、さまざまな戦前の建物が建ち並ぶ新佃島は、まるで時の止まった街にタイムスリップした錯覚を覚えるほど。今から100年前の東京の原風景を知ることができる、貴重な街だと思います。
新佃島の西に位置するのが、元来の佃島があった佃1丁目。新佃島のような商店建築や裏長屋はなく、近年建て替えられた木造戸建て住宅が数多く建ち並ぶ合間に、戦前の木造建築が点在しています。ただし、佃島にはビルがほとんどなく、あってもせいぜい4階どまり。木造の低層住宅がひしめく光景は、とても銀座から2駅とは思えません。
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