経済都市・東京を作り上げた渋沢栄一 豪農だった実家を支えた「藍玉」をご存じか【青天を衝け 序説】

“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。


活躍の背景にあった幼き日の金銭体験

 2021年2月14日(日)から放送が始まった大河ドラマ「青天を衝(つ)け」は、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一が主人公です。

 大河ドラマは戦国時代・幕末が人気で、今回の「青天を衝け」は幕末期から始まりますが、メインは明治期以降です。そのため、放送前から先行きが不安視されていました。しかし、ふたを開けてみれば初回視聴率が20.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と好発進。前評判を覆しました。

 主人公・渋沢は、武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)に出生。渋沢家は藍玉(あいだま、発酵させた藍の葉を乾燥させて固めた染料)をつくる農家です。血洗島の土壌は米作には不向きで、そのために藍玉を生産していたわけですが、この藍玉が多額な利益をもたらし、それが渋沢家を潤していくのです。

藍染め体験のイメージ(画像:H.P.D.コーポレーション)



 渋沢家は藍玉で財を築いていた富農だったこともあり、農民ながら帯刀を許されていました。そうした経緯から、徳川慶喜に仕えることがかないます。

 慶喜に仕えた渋沢は、その後にトントン拍子で出世します。慶喜から信頼を得た渋沢は、幕末期にフランス・パリへと派遣されます。これは慶喜の弟・昭武が幕府名代としてパリ万博に参加するためのお供ですが、パリ滞在中に渋沢は会計係として活躍。その才能は明治新政府の官吏時代にも生かされ、民間企業人に転じてからも存分に発揮されました。

 渋沢が人並みはずれた会計のスキルを身につけていたのは、渋沢家の家業である藍玉生産が大きく関係しています。

 血洗島は岡部藩の領内にあります。当時の税金は米納が一般的でしたが、血洗島は米作に不向きだったために金納(税金を貨幣で納めること)とされていました。金納であったため、少しでも高く藍玉を販売すれば、それだけ自分たちの収入も増えます。

 渋沢はそうした金銭のやり繰りを身近で見ていたため、会計スキルが自然と磨かれていきました。これが実業家として活躍するバックボーンになるのです。

都内の阿波踊り普及の陰に徳島藩の存在?

 しかし、令和の現在において藍玉と言われてもピンときません。当時の社会において、藍玉はどのぐらいの富を生み出すものだったのでしょうか?

 藍玉の生産・販売で富を築いたのは渋沢家だけではありません。阿波(あわ)踊りで有名な徳島藩も藍玉で大きな収益をあげていました。徳島藩は江戸時代を通じて蜂須賀(はちすか)家が藩主を務めました。

 蜂須賀家は領内で生産されている藍玉の販路を広げるために、江戸でも阿波踊りを流行させようとしたという説もあるほど。阿波踊りが流行すれば、それだけ藍染めの着物が売れる。着物が売れるということは、藍玉を生産している徳島藩がもうかるという仕組みです。

 蜂須賀家がこうした仕組みを狙って阿波踊りを普及させたか否かは不明ですが、現在でも豊島区大塚や杉並区高円寺などでは阿波踊りが夏の風物詩になっている地域は珍しくありません。

毎年開催される「東京高円寺阿波おどり」(画像:写真AC)



 幕末期、多くの大名は金銭的に困窮していました。ところが、徳島藩の蜂須賀家はスーパーリッチな大名として知られていました。明治新政府発足後、最後の藩主だった蜂須賀茂韶(もちあき)は妻同伴でイギリスのオックスフォード大学へ留学しています。

 幕末から明治初期にかけて、将来有望の政治家・技術者たちが海外へ渡りましたが、彼らの大半は政府が留学費用を負担する官費留学です。しかし、蜂須賀は私費留学。つまり、自分の財布から留学費用を捻出できるほどスーパーリッチだったのです。そうしたことが可能だったのも、蜂須賀家が藍玉で財を築いていたからです。

 渋沢と蜂須賀は藍玉で財を築いたという共通点がありますが、ふたりは政治でも経済でも濃密な協力関係にありました。

 イギリスから帰国した蜂須賀は大蔵省(現・財務省)に出仕しますが、その一方で蜂須賀家の莫大(ばくだい)な財産を使って多くの企業を立ち上げていきます。蜂須賀は江戸幕府が倒れたことで失業する武士が世にあふれることを危惧し、その受け皿となる事業を起こすことをイギリス留学中から考えていました。

 大量の失業した武士を雇用するには、大規模な企業を設立しなければなりません。大規模な企業を立ち上げるには、多額の出資金を集める必要があります。

 そうした考えから、蜂須賀は1877(明治10)年に十五銀行を設立。そして、十五銀行へ預金をするよう華族(旧大名家・旧公家)に呼びかけたのです。華族というと、金に困らない優雅な生活を送っていると思われがちですが、それはあくまでも一部に過ぎません。生活に苦しむ華族もたくさんいました。

 例えば、江戸時代は御三卿として高い身分にあった田安徳川家は、明治新政府発足後に伯爵となりました。田安徳川家の当主だった徳川達孝(さとたか)は、昭和初期から生活が苦しくなり、ついには屋敷を売却。家宝も売り払い、宗家の徳川家達(いえさと)の家で居候生活を送っています。

 また、旧信濃飯山藩の本多家は明治新政府の発足後に子爵を授爵されていますが、同じく昭和初期には破産宣告を受けるほど多額の借金を抱えました。本多家は窮乏を脱するため、子爵という爵位を売りに出すという奇想天外な行動に出ています。

 このように、多くの華族は明治期には苦しい財政状況だったのです。

東京府知事に就任した茂韶

 金銭的に困窮する華族たちの食いぶちをつくるべく立ち上げられた十五銀行には、莫大な資金が集まりました。預金した多くが華族だったため、十五銀行は「華族銀行」ともやゆされるほどでした。

 十五銀行は集まった莫大な預金を事業に投資し、その運用益が華族たちの生活を支えます。

 十五銀行が積極的に投資した事業のひとつに、将来有望と目されていた日本鉄道(現・JR東日本)があります。日本鉄道の大株主には蜂須賀が名を連ね、経営陣には渋沢が名前を連ねています。

 江戸時代まで鉄道事業はありません。新たな産業だったため、失業武士を雇用してもその割を食って失業する人はいません。蜂須賀は旧大名という立場から、渋沢は旧幕臣という立場から失業武士の救済を考え、さまざまな新事業を興そうとしていたのです。

蜂須賀茂韶の肖像写真(画像:雨竜町)



 蜂須賀は1890年に政治手腕が評価されて東京府知事(現・東京都知事)に就任。在任期間はわずか1年でしたが、退任後は侯爵だったことから貴族院議員に転じます。

 蜂須賀は政治家として活動するかたわらで、渋沢とともに産業振興・地方活性化にも取り組みました。蜂須賀が渋沢とともに産業振興・地方活性化を目的として立ち上げたのが喜賓会(現・JTB)です。

観光業で地方の経済活性化を狙った喜賓会

 1893年に立ち上げられた喜賓会は現代で言うところの旅行代理店や観光協会、観光庁のような役割を担う組織でした。

 明治新政府は江戸時代までの政治体制を改めて中央集権を目指しました。それは時代の流れでもありましたが、中央集権体制を目指したことで東京などの大都市に人口も産業も集中します。他方、産業や人口が奪われる形になった地方からは、このままでは衰退してしまうという危機感が強くなっていました。

 喜賓会は開国後に急増していた外国人観光客をどのようにもてなすのか? どのような土産品が好まれるのか? どのような地方を売り込めばいいのか? などを調査。それをビジネスに結びつけ、外貨獲得を狙うとともに地方の観光地を発掘して、観光業で地方の経済活性化を狙っていたのです。

 喜賓会はJTBと統合したことで役目を閉じますが、蜂須賀と渋沢は明治新政府の発足で失業した大名や武士たちのその後まで考え尽くしたのです。

JTBのウェブサイト(画像:JTB)

 渋沢と蜂須賀、両者は藍玉で財をなしました。藍玉の生産は時代とともに衰退し、現代人にとってはなじみが薄くなっています。そのため、「青天を衝け」で藍玉生産のシーンを目にしてもそれが富農と結びつきにくいでしょう。しかし、藍玉が富を生み出す農産物であったことは間違いありません。

 明治以降に日本が大きく発展を遂げる裏側に藍玉の力があったことを知ることで、大河ドラマ「青天を衝け」は見方が大きく変わってくることでしょう。


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