人口わずか173人! 絶海の日本最小自治体「青ヶ島」は上陸難易度もピカイチだった

伊豆諸島に属し、日本屈指の上陸難易度を誇る青ヶ島。そんな同島の歴史について、フリーライターの大島とおるさんが解説します。


人口は八丈島のわずか2.5%

 日本でもっとも人口の少ない自治体が、東京都にあるのをご存じでしょうか。

 それは伊豆諸島の「青ヶ島」にある青ヶ島村で、人口は2020年6月時点で173人。同じ伊豆諸島の八丈島は人口7048人(2020年6月末現在)、新島は2559人(2020年6月末現在)ですから、いかに人口が少ないかがわかります。

 ちなみにもっとも人口の多い村は沖縄県読谷村で、4万1615人(2020年7月末現在)となっています。

定期船の就航率はわずか40%

 人口だけでなく青ヶ島の存在を際立たせているのが、そのアクセスの悪さです。

青ヶ島の様子(画像:海上保安庁)



 東京から島に直接行くルートはありません。隣の八丈島で定期船かヘリコプターかのどちらかに乗り換えなければなりません。

 かつては「鳥も通わぬ」と言われるほどの流刑地だった八丈島ですら、今は空路もあり、到達は比較的容易です。

 しかし青ヶ島はといえば、1日1本と言われる定期船の就航率はわずか40%程度。島側の港が黒潮に洗われるため、海が荒れていると接岸できないのです。

 対して、ヘリコプターの就航率は70%程度。しかし定員9人のため、すぐに満席となり予約は困難。おまけに飛べなかった場合の振り替え便は次の「空いている日」ということになります。つまり到達するのが困難なだけでなく、なかなか帰ることができない可能性もあるのです。

 このハードルの高さと、マイナーな旅行先ゆえの旅費の高さが、人々に二の足を踏ませているのです。

土地は肥沃で台風にも強い

 それでも、現在は港の整備などでかつてよりも環境は改善したようです。

 1955(昭和30)年に新東宝が製作した映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』では、当時の青ヶ島の様子が描かれています。そこでは冬ともなればまったく船が接岸できず、外界と孤立してしまう様子が描かれています。

 なにしろ、火山の一部が海上に露出した形状の山は周囲のすべてを崖に囲まれており、わずかな平地に人が暮らしているのです。

青ヶ島の鳥瞰(ちょうかん)図(画像:海上保安庁)



 とても住むには困難な地形ですが、水はあり、土地は肥沃(ひよく)。台風が来ても周囲を外輪山(中央火口丘を取り囲む環状の尾根)に囲まれており、比較的被害が抑えられます。そのため、隣の八丈島に比べると飢饉(ききん)の心配はありませんでした。

 1700(元禄13)年には、飢饉に見舞われた八丈島の人々が青ヶ島に向かおうとして遭難したという記録が残されています。同じ伊豆諸島ですが、両島の間に流れる黒潮は激しく、動力のない船で越えるのは至難の業だったのです。

江戸時代、島は地獄と化した

 そんな豊かな孤島が地獄と化したのは、1785(天明5)年のことです。

青ヶ島の火山活動。水域が変色している。2012年8月撮影(画像:海上保安庁)

 激しい火山の噴火が始まったのです。江戸時代の火山活動は1780(安永9)年から記録されており、地震や池の水位の変化に始まり、噴火は激しさを増しました。1783(天明3)年には、農地が壊滅的な被害を受けて年貢が免除されるほどでした。

 その後、いったん鎮まった火山活動は再び牙をむきます。もはや島内にとどまることを諦めた島民たちは、八丈島の島役所に避難を願い出ます。ひとまず八丈島から役人たちを乗せた船が見聞に来ましたが、上陸してみれば島全体が火山灰に埋もれて、飲み水すらありません。

 救助船を用意するため、役人は載せることができるだけの島民を乗せていったん島を離れますが、島を離れる船にも火山灰が降り注ぎ、沈没の危機すら迎えます。

救助船派遣も半数以上の島民は置き去りに

 この状況を知った八丈島の島役所では4月、3隻の救助船を向かわせます。救助船が青ヶ島に近づくと、既に島は破滅寸前でした。なにしろ島全体が噴煙に覆われていたのです。

 今でこそ、青ヶ島には船が接岸できる岸壁がつくられ、自動車で崖に取りつけられた坂道を登ることができます。しかし当時の船着き場である神子(みこ)の浦は、わずかに玉砂利があり、船を寄せられるような小さな浜でした。

青ヶ島の神子の浦(画像:(C)Google)



 神子の浦と集落をつなぐ道は、道とは到底呼べないような急斜面。しかも、そこに熱い火山灰が降り注いでいるのです。救助を待っていた人々は救助船を見るとわれを失い、殺到します。

 救助船は当時200人あまりいた島民全員を載せることはできず、半数以上は置き去りに。救助船もこれ以上の救助は不可能と判断したのか、再び島へ派遣されることはなく、残された140人あまりの島民は噴火の中で死に絶えたと言われています。

困難を極めた帰島の挑戦

 なんとか生き延びて八丈島に逃れた青ヶ島の人々ですが、その暮らしは厳しいものでした。

 食糧事情が悪く、飢饉の危機が常にある八丈島では居候同然。そのため、島民たちは噴火が収まった青ヶ島への帰還を何度も試みます。帰島の挑戦は1789(寛政元)年から始まったものの、困難を極めます。

青ヶ島の三宝港(画像:海上保安庁)

 噴火は治まっていたものの、水は不足。さらに無人島になった島にはネズミが大繁殖し、島民数人が復興のために上陸するとたちまち食糧を食い荒らされる始末。

 絶海の孤島ゆえに物資や人を一度に送り込むことができない困難さが、復興を妨げたのです。

佐々木次郎太夫伊信墓

 挫折を経て一時は帰島を諦めた青ヶ島の住民でしたが、1817(文化14)年に佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主になると、再び帰島計画が始まります。

 それまでの失敗を踏まえて、綿密な計画を立てた次郞太夫は着実に成功を積みかね、ついに全島民の帰島を実現します。

青ヶ島の様子(画像:海上保安庁)



 しかし青ヶ島が再び検地を受けて年貢の額を決められる、すなわち年貢を納めることができるまでに復興したのは1835(天保6)年のことでした。帰島の思いが実現するまでに実に半世紀あまりが経過していました。

 このことは後世に多くの文筆家の興味をひき、柳田国男の『青ヶ島還住記』などに記されています。「還住(かんじゅう)」とは、一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住するという意味ですが、現在ではほぼ、青ヶ島島民の帰島を指す言葉として使われています。


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